勝海舟日記は文久二年八月十七日から始まっている。その日に勝海舟は「御軍艦奉行並」を仰付けられた。そのことが切っ掛けであろう、そのご明治三十一年迄日記を書き続けている。
勁草書房判の海舟日記の第一巻は、その文久二年八月から慶応三年十二月晦日までが紹介されている。その中に細川藩領内をへて、長崎に向いまた復路の旅の海舟一行の記録が含まれている。
文久四年(=元治元年)二月
■十五日 五時
豊前、佐賀関、着船。即ち徳応寺へ止宿。
地役人、水夫、火焚へ酒代遣わす。惣計五両一分。
■十六日 豊後鶴崎の本陣へ宿す。佐賀の関より五里。此地、街市、可なり。
市は白滝川に沿う。山川水清し、川口浅し。
大御代はゆたかなりけり旅枕一夜の夢を千代の鶴さき
■十七日 野津原に宿す。五里、山の麓にて、人家可ならず、八幡川あり。
大抵一里半ばかり、川堤に沿うて路あり。
海道広く、田畑厚肥、桃菜花盛、関東の三月頃の季節なり。
民のかまどゆたけきものをしらぬいのつくし生てう(おうちょう)野津原のさと
野津原の宿より出ずれば、山路。この道、久住山を左に見る。
往時、この宿の村長三輔なる者、山中より水源を引き、三渠を引く。
これより古田二十余町、新田三丁余町を得たりと、その事業を記し碑あり。
七里。
豊後佐賀の関五里泊。
港せまし。上下二所あり、入口、上の口暗礁あり。山脚に沿うて入るべし、中央危し。
■十八日 久住に宿る。細川矦の旅邸。惣体、葺屋、素朴、花美の風なく、庭中泉を引き、
末、田野に流る。七里地は、久住の山脚にして、殆ど高崇、地味可なり。
山泉を引きて左右に導く。小流甚だ多く、架する橋は皆石橋、円形に畳み、橋
杭なし。導泉、意を用いて左右数所。林木これが為に繁茂し、稲、栗、皆実る
べし。その高名、尽力の至る処殊に感ずべく、英主あらざれば、この挙興しが
たかるべし。他領、公田の雑る所、熊領に及ばず。また聞く、この地の南方、導
泉の功、この地の比にあらず。或いは山底を貫き、高く噴出せしめ、或いは底な
しの深谷に帰さしめ、皆田畑の用に応ぜしむと。
山上より阿蘇嶽を見る。この嶽に並び立ちたる高峯あり。猫が嶽と云う。
人跡到らず。山の頂上、大石、剣の如く成るもの直立す。妙義山に比すれば、更
に一層の奇峯なり。
■十九日 八里
内の牧に宿す。この地もまた山中、山泉自由なり。
惣て鶴崎より此地まで、土地厚■、熊領は大材甚だ多し。此地より街道杉並樹、
数十年の大林、左右に繁茂す。我、此地を過ぎて、領主の田野に意を用いしこ
と、格別なるに歎服す。また人民、熊本領にして素朴、他国の比にあらず。
内の牧より二里、的石村あり。爰に領主小休の亭あり。素質、底は山泉一面に
流る。夏に宣し。北に北山あり、南に阿蘇あり。阿蘇の脚甚だ広く、田野あり。
また一里半にして二重の峠あり。甚だ高く、峠の道十八、九町、最難所、路、山
の脚、殆ど頂上をめぐる。
峠を下り少々行けば、大石直立、大斧壁をなせし所あり。侘立十丈ばかり、横
また同断。路を挟みて左右に直立す。これを過ぐれば大杉、山脚に並し、山腹
鬱として殆ど唐画と一況。
大津宿に到る。五里。大津宿より、熊城下までは少低の路、左右大杉の並樹、
この中、桜の大樹十四、五丁の並樹あり。道中甚だ広し。熊城を路二里より望む。
天守孤立、築制他城の比にあらず。外周最大なり。武士屋敷、その中にあり。
郭畳高く、堅牢おもうべし。
熊城下新町の本陣に宿す。矦より十文字の鑓刃を賜う。我が門の藩士、数人来訪。
横井先生へ龍馬子を遣る。
■二十日 (元治と改元、海舟がこのことを知るのは三月九日長崎に於いてである)
■二十一日 新町出立、馬にて高橋宿に到る。同所より乗船。此夜、島原へ渡る。此地、小川
あり。小船にて川口へ下る、半里。
高橋の郡奉行岩崎物部に面会。志士なりと云う。
■二十二日 払暁、島原へ着船。
・・・・・・復路に於ける記録はわずかしかない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■四月四日 長崎出立。
矢上中食。見立の者彦次郎、安之丞用達。筆者両人。肥前藩杉谷応助、老矦の
内命あり。
■五日 島原着。
■六日 渡海、熊本着、肥後矦より使者あり。
当今、形勢如何、且、海外の事情を問わる。答え云う、外邦人は時宣、道理に明
らかなり。故に逢接の際、我虚言を以てせず、直言飾らざれば、必ず談判かつて
苦心なし。皇国人は皆虚飾、且、大儀に暗し。天下の勢、回旋すべからず、と云々。
池辺龍太、使いとして来訪。御軍艦拝借の内話を談ず。
龍馬を横井先生方へ遣わす。
横井先生の親族三人入門、同行す。
■七日 出立、内牧に宿す。
■八日 久住へ着。細川隅之助公子に途中にて逢う。聞く、京師の諸矦、大抵帰国すと。
■九日 野津原に宿す。
■十日 佐賀関着。船中の者来る。
■十一日 出帆。
■十二日 午時、兵庫投錨。荒井その他来訪。江戸操練局焼失の事を聞く。且、蟠龍船、備
前守、拝借。順動・朝陽両船、細川家拝借。近々下国の由を聞く。
同夕、大坂へ着、上陸。
編者・勝部真長の解説が「海舟日記の時代背景」と銘して設けられている。
この中の文久四年・元治元年二月の項を見ると「十四日神戸を船で発って翌日佐賀の関に着、陸路九州を横断して二十三日長崎へ到着。この間の旅日記はなかなか雅趣ある名文である」と評している。
勁草書房判の海舟日記の第一巻は、その文久二年八月から慶応三年十二月晦日までが紹介されている。その中に細川藩領内をへて、長崎に向いまた復路の旅の海舟一行の記録が含まれている。
文久四年(=元治元年)二月
■十五日 五時
豊前、佐賀関、着船。即ち徳応寺へ止宿。
地役人、水夫、火焚へ酒代遣わす。惣計五両一分。
■十六日 豊後鶴崎の本陣へ宿す。佐賀の関より五里。此地、街市、可なり。
市は白滝川に沿う。山川水清し、川口浅し。
大御代はゆたかなりけり旅枕一夜の夢を千代の鶴さき
■十七日 野津原に宿す。五里、山の麓にて、人家可ならず、八幡川あり。
大抵一里半ばかり、川堤に沿うて路あり。
海道広く、田畑厚肥、桃菜花盛、関東の三月頃の季節なり。
民のかまどゆたけきものをしらぬいのつくし生てう(おうちょう)野津原のさと
野津原の宿より出ずれば、山路。この道、久住山を左に見る。
往時、この宿の村長三輔なる者、山中より水源を引き、三渠を引く。
これより古田二十余町、新田三丁余町を得たりと、その事業を記し碑あり。
七里。
豊後佐賀の関五里泊。
港せまし。上下二所あり、入口、上の口暗礁あり。山脚に沿うて入るべし、中央危し。
■十八日 久住に宿る。細川矦の旅邸。惣体、葺屋、素朴、花美の風なく、庭中泉を引き、
末、田野に流る。七里地は、久住の山脚にして、殆ど高崇、地味可なり。
山泉を引きて左右に導く。小流甚だ多く、架する橋は皆石橋、円形に畳み、橋
杭なし。導泉、意を用いて左右数所。林木これが為に繁茂し、稲、栗、皆実る
べし。その高名、尽力の至る処殊に感ずべく、英主あらざれば、この挙興しが
たかるべし。他領、公田の雑る所、熊領に及ばず。また聞く、この地の南方、導
泉の功、この地の比にあらず。或いは山底を貫き、高く噴出せしめ、或いは底な
しの深谷に帰さしめ、皆田畑の用に応ぜしむと。
山上より阿蘇嶽を見る。この嶽に並び立ちたる高峯あり。猫が嶽と云う。
人跡到らず。山の頂上、大石、剣の如く成るもの直立す。妙義山に比すれば、更
に一層の奇峯なり。
■十九日 八里
内の牧に宿す。この地もまた山中、山泉自由なり。
惣て鶴崎より此地まで、土地厚■、熊領は大材甚だ多し。此地より街道杉並樹、
数十年の大林、左右に繁茂す。我、此地を過ぎて、領主の田野に意を用いしこ
と、格別なるに歎服す。また人民、熊本領にして素朴、他国の比にあらず。
内の牧より二里、的石村あり。爰に領主小休の亭あり。素質、底は山泉一面に
流る。夏に宣し。北に北山あり、南に阿蘇あり。阿蘇の脚甚だ広く、田野あり。
また一里半にして二重の峠あり。甚だ高く、峠の道十八、九町、最難所、路、山
の脚、殆ど頂上をめぐる。
峠を下り少々行けば、大石直立、大斧壁をなせし所あり。侘立十丈ばかり、横
また同断。路を挟みて左右に直立す。これを過ぐれば大杉、山脚に並し、山腹
鬱として殆ど唐画と一況。
大津宿に到る。五里。大津宿より、熊城下までは少低の路、左右大杉の並樹、
この中、桜の大樹十四、五丁の並樹あり。道中甚だ広し。熊城を路二里より望む。
天守孤立、築制他城の比にあらず。外周最大なり。武士屋敷、その中にあり。
郭畳高く、堅牢おもうべし。
熊城下新町の本陣に宿す。矦より十文字の鑓刃を賜う。我が門の藩士、数人来訪。
横井先生へ龍馬子を遣る。
■二十日 (元治と改元、海舟がこのことを知るのは三月九日長崎に於いてである)
■二十一日 新町出立、馬にて高橋宿に到る。同所より乗船。此夜、島原へ渡る。此地、小川
あり。小船にて川口へ下る、半里。
高橋の郡奉行岩崎物部に面会。志士なりと云う。
■二十二日 払暁、島原へ着船。
・・・・・・復路に於ける記録はわずかしかない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■四月四日 長崎出立。
矢上中食。見立の者彦次郎、安之丞用達。筆者両人。肥前藩杉谷応助、老矦の
内命あり。
■五日 島原着。
■六日 渡海、熊本着、肥後矦より使者あり。
当今、形勢如何、且、海外の事情を問わる。答え云う、外邦人は時宣、道理に明
らかなり。故に逢接の際、我虚言を以てせず、直言飾らざれば、必ず談判かつて
苦心なし。皇国人は皆虚飾、且、大儀に暗し。天下の勢、回旋すべからず、と云々。
池辺龍太、使いとして来訪。御軍艦拝借の内話を談ず。
龍馬を横井先生方へ遣わす。
横井先生の親族三人入門、同行す。
■七日 出立、内牧に宿す。
■八日 久住へ着。細川隅之助公子に途中にて逢う。聞く、京師の諸矦、大抵帰国すと。
■九日 野津原に宿す。
■十日 佐賀関着。船中の者来る。
■十一日 出帆。
■十二日 午時、兵庫投錨。荒井その他来訪。江戸操練局焼失の事を聞く。且、蟠龍船、備
前守、拝借。順動・朝陽両船、細川家拝借。近々下国の由を聞く。
同夕、大坂へ着、上陸。
編者・勝部真長の解説が「海舟日記の時代背景」と銘して設けられている。
この中の文久四年・元治元年二月の項を見ると「十四日神戸を船で発って翌日佐賀の関に着、陸路九州を横断して二十三日長崎へ到着。この間の旅日記はなかなか雅趣ある名文である」と評している。