勝海舟、氷川清話に曰く
「肥前の鍋島閑叟(直正)侯は、名高い名君だが、たいへん陽明学の学問に達しておられたということだ。文久三年の正月には、将軍家文武の補導を命ぜられて、ときどき江戸城において将軍を訓導せられたのは大名の中でも昔から例がないことだ。候は一生国事に奔走せられたことは、いまさらいうまでもなく世間に知れわたっている。」
細川の最後の藩主(14代)・護久候の正室が、この鍋島閑叟候女・宏子である。護全、護晃、護立(16代)等が宏子の子である。(15代護成は妾腹)当然のことながら、護貞--護煕と鍋島家のDNAが受け継がれている。陽明学は如何か・・?(×)
「肥前の鍋島閑叟(直正)侯は、名高い名君だが、たいへん陽明学の学問に達しておられたということだ。文久三年の正月には、将軍家文武の補導を命ぜられて、ときどき江戸城において将軍を訓導せられたのは大名の中でも昔から例がないことだ。候は一生国事に奔走せられたことは、いまさらいうまでもなく世間に知れわたっている。」
細川の最後の藩主(14代)・護久候の正室が、この鍋島閑叟候女・宏子である。護全、護晃、護立(16代)等が宏子の子である。(15代護成は妾腹)当然のことながら、護貞--護煕と鍋島家のDNAが受け継がれている。陽明学は如何か・・?(×)