重賢公に関する事蹟を記した「銀台遺事」によると、細川藩の参勤は「常に豊後の内、君の領分鶴崎といふ所より御船出し、播州室津に押渡して、夫より陸路をうたせ給ふ」と記されている。当然陸路小倉を経ることもあったが、豊後路をへて鶴崎より発舟する事が多かった。帰りもまた同様である。しかし、潮の関係で佐賀関から出入りしたともいう。先日のブログで書いた「海舟と龍馬」の蒸気船はこの佐賀関に入っている。
TVのニュースを見ていたら、日鉱佐賀関の港に着岸していた鉱石運搬船の中で、死亡事故があったことを報じていた。このニュースで佐賀関港の現況を知るとは思いも寄らなかったが、ここがかっての「上浦」と呼ばれた所だろう。かっては細川藩の舟でうめつくされていたことだろう。
佐賀関といえば、「関さば」「関あじ」で有名な所である。岬をぐるりと廻った反対側が、佐賀関漁港があり「下浦」と呼ばれていた。鶴崎番代の下部機構として上浦に佐賀関番所が設けられた。遠見山に遠見番所があり、舟影を確認すると鶴崎道を駆けて鶴崎番所に注進に及んだという。
地元神崎の郷土史家・神埼信博先生から、御著「浦番所その実相」「関手永の農民生活史」をご恵贈たまわり、愛読書として親しんでいるが、細川藩豊後領の内実を知る上で貴重な書籍である。過日40年振りに旧交を温めた親族のご先祖様が、佐賀関上番并浦奉行を勤めていた。これも神崎先生の御著のお陰により知りえたことである。海舟、龍馬の事をふくめて今、佐賀関・鶴崎にはまっている。
■鶴崎歴史散歩 turusaki.town-web.net
■佐賀関ポータルサイト www.saganoseki.info
TVのニュースを見ていたら、日鉱佐賀関の港に着岸していた鉱石運搬船の中で、死亡事故があったことを報じていた。このニュースで佐賀関港の現況を知るとは思いも寄らなかったが、ここがかっての「上浦」と呼ばれた所だろう。かっては細川藩の舟でうめつくされていたことだろう。
佐賀関といえば、「関さば」「関あじ」で有名な所である。岬をぐるりと廻った反対側が、佐賀関漁港があり「下浦」と呼ばれていた。鶴崎番代の下部機構として上浦に佐賀関番所が設けられた。遠見山に遠見番所があり、舟影を確認すると鶴崎道を駆けて鶴崎番所に注進に及んだという。
地元神崎の郷土史家・神埼信博先生から、御著「浦番所その実相」「関手永の農民生活史」をご恵贈たまわり、愛読書として親しんでいるが、細川藩豊後領の内実を知る上で貴重な書籍である。過日40年振りに旧交を温めた親族のご先祖様が、佐賀関上番并浦奉行を勤めていた。これも神崎先生の御著のお陰により知りえたことである。海舟、龍馬の事をふくめて今、佐賀関・鶴崎にはまっている。
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