寛文五年七月十三日幕府による江戸証人制度が廃止された。細川家においては忠利公を最初とする。
細川忠興の二男・興秋は弟(三男)・忠利の代わりに忠興によって指名されたが、興秋はこれを拒否して出奔大坂の陣においては西軍に加担する。のち忠興により自刃の命を受けた。
これに変わったのが五男・興孝(刑部家祖)だが長く江戸に詰め、天草島原の乱への出陣も認められず、父忠興との仲が悪くなった。
興孝に代わったのが生母を同じくする四男・立孝(宇土細川家祖)である。この人は忠興が溺愛したが、逆縁で亡くなった。
また忠興の母麝香が70歳で江戸証人となっているが、家老有吉家では4歳の「しゃみ」が証人となつている。
家臣団においてはすべてを把握できていないが、これ等の人たちは後に藩主の側近として重要な役を勤めている。
以下過去に取り上げたものをご紹介しておく。
江戸証人の始まり
慶長五年一月十五日 (忠利)
証人忠利のお供の人々
元和四年の江戸藩邸 (麝香)
原因は「大名証人制度」 (興秋)
■寛永17年3月興孝(刑部家祖)、熊本帰着
江戸証人のこと-- 1 (続)
江戸証人のこと-- 2
江戸証人のこと-- 3
江戸証人のこと-- 4
江戸証人のこと-- 5 (松井家)
江戸証人のこと-- 6 (有吉家・沢村家)
■有吉家のシヤミとは・・・・
江戸証人のこと-- 7
■米田新十郎という人
沼田氏の證人
江戸証人・沼田与次郎
「大名証人制度」の細川家10家
御恵贈御礼「東大史料編纂所研究紀要第27号抜刷 寛永一六年細川忠興の人質交代」