この文書には寛政〇年とあるが、熊本藩年表稿を見てみると寛政九年の十月二日の項に「八代城内昨日出火」とある。
忠義者の家臣が城主に罪が及ばないようにと自分の家に火をつけというが、原因は天火(落雷による失火)であり、この人物の処分が如何なされたのか少々気にはなる。
再建にあたっての材木の調達などについて記されている。
寛政〇年十月二日暁天火ニて八代御城御本丸内併御櫓
茂一ヶ所焼失是は主水殿(松井営之)居住の所より燃始しに其家士
松井門右衛門此様子を見て己か家に火を懸けり 御城燃て
ハ主水殿身分難立間我家ゟの出火ニ取成腹切らんと覚
悟せしが天火也と知れたる故其事ニ不及しと也 扨御普
請は鎌田左一兵衛ニ被仰付享和元年成 然此材木ハ多く
菅目丸の奥山ゟ伐出たり 此山ハ九州無双の深山ニて樅栂塩
地桂桜の類良木枝を雑へ樹木暗く澗泉居流し■なと甚
難し 東を菅と云西を目丸と云 山の續は那須五家ニ至る 矢
部の地も凡八九里其中衆嶺に秀るを國見嶽と云 ■頂迄
山中八里是日肥(日向・肥後)の境也 其間矢も不通如く茂れり尤材木
を伐出すは二里計の所也 樵夫の通ふ岨道もさだかなら
す 冣険敷山なれハ桟を作て運出す 其仕懸山の片岸高く
聳し岩角の少しのかヽりに柱を立横木を結渡し根を大木の
本ニ結付る 櫓普請の時の道懸の如し 其上ニ八寸角の材木を
並へ如斯桟を作る事一里計の間也 其上を車ニ材木を積て
押行 車を使フ者一人油をさす者一人くさびを■ル者一人
也 勿論讒の木の上ニて押損すれハ忽ち数十丈の谷底ニ
落誠ニ命を的ニする業なり故是を修羅出しと云と
矢部の人語れり 夫ゟ緑川を下す也