津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■本能寺からお玉ヶ池へ ~その㉒~

2025-02-09 13:13:46 | ご挨拶

      吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2025:1:30日発行 第78号      
           本能寺からお玉ヶ池へ ~その㉒~         医局:西岡 暁 

 

     屠蘇酌むも わらぢながらの 夜明けかな (小林一茶)

 「じんだい」読者の皆様、あけましておめでとうございます。読者の皆々様にとってこの年が素晴らしき飛躍の年になりますように!
「本能寺からお玉ヶ池へ」の永き道行も、いつの間にか5度目の正月を迎えました。ところで正月にも節句があるのを御存知でしょうか?
正月の節句は1月7日の「人日(じんじつ)」です。この日は「節句」としては忘れられた(?)かも知れませんが、節句食である「七草粥」は今でも残っていますね。

     人日や 雪に転びし 人を診る (梅田真一郎)
 この人日の句を詠んだのは、金沢大学医学部卒業の整形外科医です。

【26】東京、京都、上海

 【17】の明智光秀の「【医】のネットワーク」。これが、三百年の時を越えて江戸で「お玉ヶ池種痘所」として結実したようです。
 そして、お玉ヶ池種痘所(と、その末流・東京大学医学部)に止まることなく、大いなる流れに拡がりゆき、私たちの「此邦に生まれたるの不幸」(by呉秀三)を消し去って、麗しき沃野千里へと変えて呉れるやも知れません。
もしそうなれば、これ程嬉しいことはありません。
「お玉ヶ池種痘所」の発起人(の一人)・三宅艮斎の長男・三宅秀には6人の子供(一男五女)がいて、長男・鑛一が当代医学部精神病学第3代教授になったこと、鏞一の長男・仁が東大医学部病理学教授になったことはこれ迄に何度か触れました。
 三宅秀の長女・教は、東大医学部第一内科第二代教授・三浦謹之助(1864~1950)の妻になります。三浦謹之助が逝去した際の病理解剖の執刀者は義甥・三宅仁でした。三浦謹之助・教夫妻の長男・紀彦は医師ではありませんが、次男・義彰は、東大医学部を卒業して千葉大学医学部生化学教授になりました。三浦紀彦の次男(=三宅秀の曽孫)・三浦恭定は、東大医学部卒業の血液内科医で、自治医大教授、社会保険中央総合病院(現JCHO東京山手メディカルセンター)院長を歴任された方です。
 三宅秀の妹・峯は、佐々木東洋の妻になり(【13】で述べたように、東洋は三宅家の事実上の婿になり)ます。佐々木東洋は1870年(明治3年)大学東校に入職しますが、当時の内科教授=テオドール・ホフマンの通訳係が義兄(ながら9歳年下)の三宅秀でした。ホフマン教授の臨床講義には、毎回この義兄弟が出席しました。その3年後、校長の佐藤尚中が辞職した折、東洋も一緒に辞めます。しかしその翌年東洋は、尚中の4代後の校長・長与専斎に請われて(大学東校改め)東京医学校の病院長になりました。後年(1882年)東洋は、杏雲堂醫院(現・杏雲堂病院。@千代田区神田駿河台1丁目)を開きます。世間から名医と云われた佐々木東洋ですが、どういう訳か夏目漱石は余り良く思っていなかったようで、こんなことを語っています。
「・・・・・この医者(=佐々木東洋)が大変な変人で、患者をまるで玩具か人形の様に扱う愛嬌のない人です。それではやらないかといえば、不思議な程はやって、門前市をなす有様です。あんな無愛想な人があれだけはやるのは、やっぱり技術があるからだとおもいました。」
                      
                   佐々木東洋
                (出典:ウイキペディア)
 医家・三宅家が明智光秀の長女・岸の末裔であることは以前にお話しましたが、岸の妹・ガラシャの末裔(医家ではなく熊本藩重役の家系)にも医師に成った人がいます。大阪大学医学部形成外科初代教授(現・JCHO大阪みなと中央病院名誉医院長)の細川亙(こう)先生です。

 織田信長末裔の坪井信道(初代)は、水戸藩医・青地林宗(1775~1833)の長女・粂を娶って5人の子供(3男2女)を儲けました。青地林宗は、日本で初めて物理学書を著したことから、医学よりも「日本物理学の祖」として有名な人です。
 坪井信道は、長男・信友には2代目「信道」の名前だけ継ぐことを許し、家督&家業は長女・牧の婿とした越中国高岡出身の塾生・佐渡良益に継がせて坪井信良(1823~1904)と名乗らせます。信良は1853年(嘉永6年)に福井藩医となり、5年後、発起人(の一人)としてお玉ヶ池種痘所を設立し、その6年後には幕府奥医師になり、徳川家茂(1846~1866)、慶喜(1837~1913)二代の将軍に仕え、最期の将軍・慶喜が戊辰戦争で大阪から江戸へ軍艦・開陽丸で退却した際に同行した人です。
 実は徳川幕府は、もともと京都にオランダ式の大病院を建設することを計画し、その責任者に坪井信良を指名していたそうです。維新後幕府の医師たちは、新政府に仕えることなく慶喜に従って(駿府改め)静岡に下り、その地で京都で果たせなかった蘭方医たちの夢の病院を開きました。静岡病院(現・静岡市立静岡病院)です。その頭(病院長)には、お玉が池種痘所発起人(の一人で三宅艮斎が江戸へ下った時の同居人だった)林洞海の長男・研海がつき・頭並(副院長)として坪井信良と戸塚文海(お玉ヶ池種痘所発起人・戸塚静海の養子。シーボルトの鳴滝塾出身。伊東玄朴・坪井信道と並ぶえど「三大蘭方医」の一人。)の二人が林研海を支えました。
 お玉ヶ池種痘所の発起人・坪井信道(二代目)には子供がなかったので、周防国三田尻(現・山口県防府市)出身の長州藩医・原顕道の次男・原航三を(自身養子だった藩主・毛利元徳の命で)養子に迎え三代目信道とします。三代目信道は(長州藩VS欧米4国の)馬関戦争に軍医として参戦しましたが、明治維新後は軍医ではない海軍軍人になり、コロンビアン・カレッジ(現ジョージ・ワシントン大学。軍医ではなかったので、医学部ではありません。)に留学し、日清戦争では常備艦隊司令官(海軍中将)として参戦しました。
 なお
坪井信道の妻・粂の妹(青地林宗の三女)の秀子は、摂津三田藩医でお玉が池種痘所資金據出者(の一人)・川本幸民(1810~1871)の妻になりました。川本幸民は、義父・青地林宗と同様(?)医学よりも他の分野で有名になった人です。幸民は、chemie(オランダ語。英語のchemistry)の日本語訳wp「舎密(せいみ)」(by宇田川榕庵)から「化学」に変えたことで「日本化学の祖」と云われています。
 同じく粂の妹(林宗の四女)・宮子は、シーボルトの鳴滝塾の塾頭を努め「蛮社の獄」で永牢(=終身刑)中に脱獄して6年間の逃亡生活の末捕らえられた際に自害した高野長英(1804~1850)の妻です。高野長英は、「偉人の街」陸奥国水沢(現・岩手県奥州市。大リーガー・大谷翔平の出身地として有名。)出身の人で、お玉ヶ池種痘所開設に関わるころは出来ませんでしたが、長英の支援者だった蘭方薬種商・斎藤源蔵が(長英に代わって?)唯一医師ではない「資金據出者」になりました。高野長英は、今では文字通り星(=小惑星8133)になって輝いています。
 一方、坪井塾・日習堂の塾頭・大木忠益(出羽国米沢の郷医⦅無給武士⦆大木松陰の長男:1824~1886)は坪井信道の二女・幾と結婚して坪井爲春と名を改めて薩摩藩医になりました。坪井為春は、後年お玉ヶ池種痘所が前身である「医学所」の教授(当時の頭取は、佐藤泰然の次男・松本良順)になります。面白いこと(?)に、坪井家の人はそれぞれ主家を異にして、坪井信道は父子二代の長州藩医、信良は先ほど述べたように幕府奥医師にして将軍主治医でした。
 坪井為春・幾夫妻の次男(信道の孫)・坪井次郎は、1862年(文久2年)江戸・芝浜松町(現・港区浜松町)に生まれ、医科大学卒業後母校の衛生学教室に入ります。坪井次郎が入学した時の医学部長心得は石黒忠悳でしたが、卒業時は校名が「帝国大学医科大学」になって学長は三宅秀でした。その後ドイツに留学した坪井次郎はロベルト・コッホ(結核菌、コレラ菌の発見者:1843~1910)の下で学び、帰国後母校の衛生学助教授になります。そして1899年、坪井次郎は(三宅秀とともに)京都帝国大学医科大学建築設計委員になり、医科大学開学に当たっては、学長(兼衛生学教授)に就くことになりました。京都帝国大学医科大学初代学長・坪井次郎は、京都大学医学部の公式サイトには「初代医学部長」として掲載されています。(2018年ノーベル賞を受賞された本庶佑名誉教授は、33代、35代の二度医学部長を努められました。)
 坪井次郎と三宅秀との縁は、医学界に止まりませんでした。1903(明治36年)に発足した「学校衛生研究会」の顧問にこの二人が加わったのです。
1903年(明治36年)、夏風邪を拗らせた坪井次郎は、心内膜炎を続発して落命します。享年41。江戸生まれの織田信長末裔・坪井次郎の墓は、京都御所の北にある相国寺(足利義満開基)にありましたが、いつの間にか(?)東山の高台寺(=豊臣秀吉夫妻の寺)に移されています。
 坪井次郎の長男・芳治(1868~1960)は、京都帝国大学医学部を卒業して慶應義塾大学医学部小児科に入局した後、1926年に上海の篠崎医院(現・虹口区衛生服務中心=地域保健サービスセンター)に赴任しました。
 余談かもしれませんが、仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)に留学した魯迅の長男は周海嬰(1929~2011)と云う名です。海嬰を診察した縁で、魯迅の恩師と友諠を結ぶようになります。魯迅の恩師(で小説{藤野先生」のモデル)藤野巌九郎の祖父・勤所が江戸の宇田川玄真の蘭学塾・風雲堂で学んだ折、芳治の曽祖父・坪井信道と親しい塾生なかまだった、という御縁もあります。

 一月の 魯迅の墓に 花一つ (武馬久仁裕)

 魯迅は日本との縁が深いようで、(余談の余談になりますが、)海嬰の娘・周寧は日本人カメラマンと結婚し、その後(魯迅の曽孫)も日本で(北海道新聞社員として)暮らしています。
 坪井芳治には一男三女がありましたが、長女(だけ)が医師に成りました。芳治の長女・門馬(旧姓坪井)不二子は、大阪女子医専(現・関西医科大学)卒業の産婦人科医です。不二子の長男・門馬恒夫も獨協医科大学卒業の消化器内科医です。

       
                          坪井信道日習堂跡(深川第二中学校)                                           坪井次郎
             出典:日日是写真                         出典:ウイキペディア

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■熊本史談会・2月例会の御案内

2025-02-09 07:52:06 | 熊本史談会
                    記

期日:令和7年2月15日(第三・土曜日)午前9時45分~11時45分 
場所:熊本市電交通局電停前・ウェルパルくまもと(熊本保健所入居ビル)1階「アイポート」
講題:儒学 日本への伝来、そしてその変遷 第二回目
講演:儒学講座講師 阿田俊彦氏
 
一般参加自由:
    連絡不要、但し当日参加費 500円(資料代を含む)を申し受けます。
    お問い合わせ 090-9494‐3190 
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