ヤフーオークションで「細川」と打ち込んで検索して相当の数をチェックしてそろそろ止めようかと思っていたところに、この本が目に飛び込んできた。
この本は現在では大変な貴重本になっていて、「日本の古本屋」でも見当たらない。随分久しぶりにお目に懸った。
2007年頃私はこの本を探し回っていて「見つからぬ本・・そして雑感」を書いている。その後この本を所蔵されていたP様からご恵贈給わって現在に至っている。
以来気にして来たが、それ以来の事かと思う。
応札しようかとも思ったが、一冊持っているから人様にお譲りするのが良かろうと思ったことだ。
細川ガラシャの娘・お長
お長は忠興とガラシャの間に生まれ、前野出雲守に嫁いだが、夫君景定がその父但馬守と共に「秀次事件」(文禄4年=1595)に連座し切腹を仰せつかり、父・忠興の機転により剃髪して死を免れた。
傷心のお長が母と再び過ごすことができたが、その母・ガラシャも慶長5年(1600)には亡くなっているから、わずか5年の歳月だった。母の死の跡慶長8年に死去している。記録に於いても僅かである。
綿考輯録
(慶長八年)九月廿九日、前野出雲守後室忠興君御女御名お長安昌院殿御卒去、法号月心妙光
考ニ一書、妙光を妙覚、慶長八年を九年、九月を八月、御名お長をお市なとある皆誤なり、御碑面を拝し候ニ安昌院殿心月妙光大姉、慶長八年九月
廿九日と有、但八月と云事は近年盛光寺より願之筋有之、由来記を御役所ニ書出候ニ先住誤て八月と調出候由、当住之物語也寛政十二庚申也、御名由
来記ニもお長と有之、お市と云事ハなし、当時八代安昌院に御位牌有、此寺ハ元ト盛光寺の隠居所なりしニ、安昌院ハ元来西光寺と云、三齋君の御
愛妾小上(コノウエ)といへる女の法名を西光院法樹栄林と云、此菩提の為元和年中中津に一寺建立西光寺と被号、右女の弟良運乗誉という僧開祖也、
夫より四世の僧三齋君を慕ふて八代に來り西光寺建立、安昌院殿殿御位牌も初ハ此所ニ在、後ニ盛光寺と改也、浄土宗筑後善同寺末也
兼見卿記(結婚について)
天正十八年十二月廿六日 甲午、長岡与一郎息女(お長)隣國但馬守(前野長康)子息(景定)へ祝言、今夜被罷向云々