豊臣秀吉の茶頭にして茶聖とも言われた千利休は、その秀吉をして死を給わった。
二月十三日聚楽第の屋敷を離れ堺へ下るように沙汰され、淀川から舟をもって堺へと出立する利休を、船着き場で細川忠興と古田織部が見送っている。
舟から二人の姿を見つけた利休にとっては、驚きと喜びの一瞬であったろう。
そのことを忠興臣・松佐(松井佐渡守・康之)に感謝の意を伝えたのが、翌十四日の次の書状である。
利休の死の直前の最後の書状だと長く伝えられてきたが、その後新たな書状が発見されている。
松井文庫蔵
態々御飛脚過
分至極候富左殿
柘左殿御両所為
御使堺迄可罷下
之旨
御諚候条俄昨
夜罷下候仍淀
迄羽与様織部様
御送候て舟本ニて
見付申驚存候
忝由頼存候恐惶謹言
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二月十四日 利休(花押)
松佐様回答
京都に呼び戻された利休は、二月廿八日聚楽第の屋敷で秀吉の命により切腹して果てた。
「終に切腹可被仰付ニ定り候」とき「依之忠興君より(中略)神戸喜右衛門義を葬礼奉行に被遣候二月廿八日切腹の期ニ臨ミ、懐より羽与様と筒に書付たる茶杓を取出し、茶杓は是にて候と忠興公江申て給り候へとて神戸喜右衛門ニ渡し候、茶の湯の印可相伝の心にやと人々申候と也」とも記されている。(綿考輯録・巻十)
史料では秀吉の臣で利休の弟子でもあった蒔田淡路守が介錯をしたと伝わるが、(綿考輯録・巻十)に於いては「依之忠興君より山本三四郎正倶を介錯人に被仰付(以下略)」ともある。
この書状の宛名「松佐(松井康之)」のあとには「回答」とある。「ご返事を給わりたい」の意があるが、当然忠興に披露されたあと、どのような書状を認めたのだろうか?
利休の首級は一条戻り橋にさらされ、切腹の原因とされる大徳寺山門に置かれていた「利休の木像」も曝されたという。
秀吉の最側近として仕えた利休の死は、秀吉の「可愛さあまって憎さが百倍」の感がある。