~~絵画は「使徒ヨハネ」(1866)by Peter Nicolai Arbo~~
<はじめに>
このたび2004年から始めた連載『ヨハネ伝解読』の加筆・修正をこの場で始めています。
今は2012年ですから、8年ぶりの修正となります。
この作業にとりかかった契機は、若干込み入っています。
少し前に、鹿嶋はあるスモールサークルの人々に誘われて、聖句吟味会に加わったことがありました。
ところが、しばらくやっていると、その集団の目的は聖書探究にはなかったことが判ってきました。
主目的はむしろ、ある社会改革活動をするところにあった。
そのために聖書の言葉を役立てるべく聖書を研究しようとしていたのでした。
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主目的を聖書の探訪におくことと、それを社会改革活動におくこととは、
大差ないように見えますが、実質は大きく違ってきます。
聖句探訪そのものを主目的にすれば、聖句を制約なく自由に吟味することになります。
知的・霊的関心に導かれて水のように吟味していくことになる。
他方、社会活動にやくだてようとして聖書を読めば、自由な探訪でなくなります。
まず、解釈がそれに役立つようになることを期待されます。
実践目的に直接役立たない解釈は歓迎されません。
それは時として、攻撃を受けることもあります。
このように、ある目的のための手段とすれば、聖書に自由で虚心坦懐に向き合う姿勢がなくなるのです。
聖句の自由探究を宝とする鹿嶋は、そのグループを去ることにしました。
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その際、予想通りの非難・攻撃も出ました。
「ただ聖書を極めるためというのは、人間の行き方としておかしい。
イエスだって社会のために活動をしていったのではないか・・・」等々。
どうも、社会活動に燃えている人からすると、聖書吟味そのものを目的にするのは、
社会的に見て非生産的にみえるようです。
時として反社会的なことをしているようにすら見えることもあるらしい。
だが鹿嶋は、やはり、その場は去ることにしました。
そして、グーグルプラスの動画で、聖書に関する談話をしようと思い立ちました。
鹿嶋の自由な吟味が、その人々にもお役に立つことを期待しています。
自由な吟味には、思いがけない発見があるのです。
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春平太は、その素材に『ヨハネ伝』(ヨハネによる福音書)を選びました。
鹿嶋はこのブログで「ヨハネ伝解読」を2004年以来続けて来ていましたので、
その成果も活かして話そうと思いました。
ところが読み返してみると、気に入らないところが沢山出てきました。
実は、聖句というのは、読み返すと別の解読も出てくることが永遠に続く不思議な素材なのですが、
とにかく気に入らない。
これでは話の材料にならない、と思えてきます。
それで、このブログの文を修正しながら動画談話を行うことにしたのです。
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実は春平太も、聖書の細かいことをあれこれ考えるのに意味はあるか、とふと反省することがあります。
聖句の吟味そのものを目的とする作業は、社会的に非生産的なことかも・・とふと思うこともある。
だがそういう活動を動画で放映することは、やはり相応の社会的貢献になるのではないかと思い返しました。
特に我が国では、宗教の書物というのは他愛のないものという印象があります。
所詮「鰯の頭も信心から」というのが宗教だから、その教典もつまるところは
そんな程度のものだろうという感覚をやはりもつのです。
でも、少なくとも聖書は底知れない深さを持っています。
動画での細部に及ぶ吟味を見ていただくことによって、
聖書という書物がこんなにも奥深いものであったのか、
と知っていただくだけでも価値あることではないか。
そう思い返しました。
このブログはそういう連載談話のために、前稿を修正した談話のための素材です。
これを読むことによっても、聖書の奥深さを感知する方が一人でもでたら幸いです。
では、「修正・ヨハネ伝解読」を始めます。
<「福音書」の意味>
聖書には、「福音書」と称される書物が4本収録されています。 中身は、イエスの伝記です。
それを伝記と言わずに福音書といいます。
福音とは英語の「グッドニュース(good news)」の訳です(英語ではゴスペル(gospel)ともいいます)。
「いい知らせ」ですね。
この「いい知らせ」の「いい(good)」に、日本では「福」という字を当てました。
幸福の福で、意味は「よきもの」です。
「お知らせ(news)」には「音」という字をあてました。そしてちょっと凝って「イン」と読ませました。
福音書は「フクインショ」となったわけです。
<なぜ「いい知らせ」か?>
イエスの伝記がなぜ「いい知らせ」になるのでしょうか?
それは伝記そのものを読んでいくうちに悟られることでしょうが、簡単に言うとこういうことだと思います。
そこには、イエスが人々に伝えたことがたくさん記されています。
中には人間が幸せになる方法が記されています。それも肉体だけでなく、霊の幸福も含みます。
イエスの教えでは霊は永続するとされていますから、
永続する幸福をうる方法も書かれていることになります。
もちろんそれを受け容れない人には「いい知らせ」にはなりませんが、
伝記を書き残した人や編集した人たちは、それが真理だと確信していました。
その著者たちの姿勢にたって「いい知らせ」の書物、すなわち、福音書といっているわけです。
<四本の福音書>
四本の伝記のうち、ヨハネという著者が書いたのが「ヨハネによる福音書」です。
それは伝記でもありますので、「ヨハネ伝」とも言います。
「・・・伝」といった方が「・・・による福音書」というより短くて簡明ですね。
四本の伝記をまとめて「四福音書(しふくいんしょ)」と言います。
これらが書かれた年代順に挙げますと「マルコ伝」「マタイ伝」「ルカ伝」「ヨハネ伝」です。
ヨハネ伝は最後に書かれているわけです。
これらが聖書に収納されている順番は、年代順とちょっと違います。
二番目に書かれた「マタイ伝」が最初にくるように編集されている。そして他は、年代順になっています。
最後の伝記を書いたヨハネは、イエスをもっとも近くで直接取り巻いた12人の弟子の一人でした。
この12人を12使徒(しと)といいます。
ヨハネはその12人の中でもイエスに最も近い人でした。
使徒の中でもイエスの両脇を固めるというか、鞄持ちというか、二人の側近がいました。
ペテロとヨハネです。
ヨハネは水戸黄門で言えば、助さん格さんのうちの助さんのような存在でした。
だからイエスの言動に関する情報を沢山持っていました。
イエスの教えは、イエスがいなくなった後に急速に広がり、イエス教団は一大教団となります。
ヨハネもペテロも、その本部の奥の院から全教団を指揮する大指導者となっておりました。
ヨハネはそれまでに書かれていった三本の福音書に目を通しておりました。
そして、晩年になって、これらの福音書に記録されていないことを書こう、と腰を上げたのでした。
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