<今週の賛美歌>
今週の賛美歌は「ああ めぐみ!」(聖歌、593番)です。
ああ めぐみ! (クリックすると賛美歌が流れます)
<今週の説教>
(聖句)
「信じてバプテスマを受ける者は救われます」(マルコ伝、16章16節)
+++++++++++++++++++++++
教会に通ったり、バイブルスタディに出席したりして、聖書を学んでいる人がいます。こういう人が学んでいく間に「バプテスマ(洗礼)はいつ受けたらいいか」という疑問を持つことはよくあるようです。
具体的には、聖書をよく知り、これを十分信じられるようにならないとだめなのか、そこまで行く前にしてもいいのか、というような疑問です。
@ @ @
しかし、それに答えるには、水のバプテスマというもののもつ、意味や力を考える必要があります。
上記に掲げた聖句は、イエスの言葉です。これは
「信じる」
「バプテスマを受ける」
「救われる」
~~~の三つの部分からなっています。
1.まず、「救われる」です。
これは聖書特有の用語で、「将来、最後の審判のとき、当人の霊が火の湖に送られるのはでなく、創主の王国(天国)に入ることを許可される」という意味です。
聖書では、この宇宙は、将来火で焼かれて消滅するという思想です。そして、創主の王国である天国と、火の湖とが残ることになります(「KINGDOM原理」のカテゴリーに示した「聖書の空間理念」の図を参照して下さい。)
そして、ミケランジェロの絵で有名な「最後の審判」が始まります。そのとき、「信じる」者は、当人の霊にある罪が、覆われて「罪なき者」とみなされます。そうして、創主の王国に入ることを許可される、ということになっています。
後は、創主の身元で永遠に存続することになります。火の湖も永遠です。そして、そういう約束をイエスは与えたという思想です。これを「救い(salvation)」という語で表現して、救いの約束といっているわけです。
2.次に「信じる」です。
何を信じるか、信じる対象は何か。これは一つには上記の約束です。そして、もう一つ重要なものがある。それは、イエスがそういう約束をすることが出来た根拠です。こちらは、罪なき創主の子イエス、死ぬ必要のないイエス、の身体が殺されることによって、人間の罪の代償を造った、という思想です。
代償を受けられるというのは、人間のために準備された資格、という論理です。聖書に記された福音(よき知らせ)とは「そういう資格が準備されたよ」というメッセージ、知らせです。資格は本当だと信じて受諾しないと実現しません。
たとえば、読者がある日突然、外務大臣に指名されたという知らせを受けたとします。ところが、そんなバカなことがあろうか、といって、本国の誰にも制約されない自由な旅をと、あらかじめ予定していた外国無銭旅行にぶらりと出かけてしまった。そうして、音信を絶ったらどうでしょうか。
大臣の認証式はすぐに始まります。総理の小泉さんは帰国して受諾してくれるのを長く待つことは出来ません。それで、他の人を任命しますと、彼の資格は消滅します。資格は、そのメッセージを受諾しないと、実現しないのですね。
ところが読者がそれを信じて受諾したらどうでしょうか。「田中真紀子だってしばらくつとめられた外務大臣だ。自分に出来ないはずがない」こう信じ、楽観して受け入れたらどうか。彼には外務大臣の資格が実現します。
<「信じる」意識は「確からしさ」の確率意識>
「なら、信じた方が得だ」
そう思うでしょうが、こういうメッセージを100%信じることは出来るでしょうか。それは無理な話でしょうね。
「救い」の約束は、死後のことに関する約束です。だけど、将来実際にそうなるかどうかなど、自分が死んでもいない今の時点で、明らかになるはずがないではないですか。
先を見通す千里眼があるなら別ですよ。だけど我々は、生まれてこの方、五つの感覚(五感)でしか、ものを認知できない状態で暮らしてきています。その結果、どうしても「見えるもの」を基盤にして物事を考えるようになってきています。そこに死後の約束を持ってきて、これを100%信じろと言うのは、言う方が無理というものです。
当人が、「自分の意識は自分でわかる。私は100%信じている。バカにするな、勝手に決めつけるな」といったとしてもですよ。人間には、自分で自覚できない潜在意識というものもあります。
@ @ @
でも、全く信じられないわけではない。聖書のメッセージを学ぶ人は、一定の確からしさも感じてはいるわけです。そのように、救いの約束を「信じる」というのは、一定のパーセントの「確からしさ」を感じる、「らしさ」の意識、確率の感覚です。
「本当らしさの感覚」を確率で言うならば、聖書の言葉を学び始めた出発点では10%かも知れません。あるいは、あるとき、理性的・論理思考が働いて、「見えないものが存在するかどうかの確率は、本来五分五分とみるべき」とかいって、50%になるかもしれません。論理的にはこれが出発点であるはずです。後にそれが60%に上がるかも知れません。
しかし、それらは、どのみち、本当「らしさ」であることには変わりありません。それでいいのか、それでバプテスマを受けていいのか。これが冒頭に示した「聖書を学ぶ人が抱いていく疑問」だったわけです。
@ @ @
こうなると、やはり聖書と照らし合わせねばなりません。すると、その結論は、「それでいい、100%でなくてもいい」となりそうです。
新約聖書の「使徒行伝」には、初めて福音を聞いて、「これを信じた人」に、イエスの使徒たちは、即座にバプテスマをしています。信じたと言っても、その信仰は、そんなに成熟したものではないでしょう。
同じ「使徒行伝」の8章26~39節にはこういう話も記されています。エチオピアの高官が、エルサレムに礼拝をしにきて、馬車で帰路をたどりつつ聖書を読んでいます。今や有名になっている
「ほふり場にひかれていく子羊のように、毛を刈るものの前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。・・・」(イザヤ書53章)
~~という旧約聖書の中の聖書です。高官は、この「彼」が誰のことを言っているかわからず思案していました。
他方、12使徒のなかにピリポと言う人がいます。このピリポに聖霊(創主の霊)が語りかけます。「高官に近づくように進みなさい」と。ピリポは高官に近づき、その「彼」がイエスであることを説きます。
高官は、その解説を正しい信じます。そして道の途中でバプテスマを受けることを望みます。ピリポはそれに応じ、水のあるところが見つかった時点で洗礼を授けています。
この時点で、高官には福音の論理構造が広く深くわかっているということはありえません。信仰も内容的には、そんなに成熟したものではないでしょう。信仰は未熟なままでいいのです。
<バプテスマの力>
3.さて最後は3の「バプテスマを受ける」です。
イエスが、「信ずるものは救われる」でなく、「信じてバプテスマを受ける」ものは救われるといっている以上、バプテスマには独自の役割があることに論理上なるでしょう。それが筋です。
具体的には、「本当らしさ」の信頼感覚に、何かを与えるのが、バプテスマではないか。そういう推察が出来ます。その上で、次の聖句を読んでみましょう。
「イエスが水の中から上がられるとすぐに、天が開けて、聖霊が鳩のように自分に下ってくるのをご覧になった」(マルコ伝、1章10節)
これはイエスはバプテスマのヨハネから、ヨルダン川でバプテスマを受けられる場面です。
マルコ伝の著者マルコは、続いて、
「すると天から『あなたは私の愛する子、私の心にかなう者である。』という声が聞こえてきた」(マルコ伝、1章11節)
と、書いています。マタイ伝の著者、マタイも、この状況を同じように記録しています。
@ @ @
我々は当初これを読むと「へぇ~、不思議なことが起きるもんだなあ、やはり、イエスは違うなあ」と感じるくらいだと思われます。
だが、次のような解読も可能です。聖書では、この世に現れたイエスは、「創主の子(Son of God)」という面と、「人の子(Son of Man)」という面との二面を持った存在です。この二つの面の相対的な関係が、水のバプテスマを境に、はっきりと変わっているのです。
バプテスマ以前のイエスには、ダビデの子孫であり、大工の長男である、という「人の子」の面が前面に出ていました。創主の子という面は、いわばその影にありました。
しかし、バプテスマを受け、水から上がられたイエスには、創主の子という面が前面に出ていたと見ることも出来ます。もうダビデの子孫という面は、遙か後方に退いたのだ、と。
イエスが水から上がったその瞬間に、天から「これは私の心にかなう者」という声が下ったのは、それが「前面に出たこと」と関係していると解することが可能なように思います。
この時だけではありません。これを境に、イエスは別人のようになります。自らを「創主の子」と公衆に宣言し、「天の父」から受けたという「天の言葉」を権威を持って教え、つぎつぎにしるしと不思議を現していきます。以後、それは、受難、十字架死、復活、昇天と、最後まで続きます。
それ以前のイエスには、そうしたところは表に現れませんでした。こういう転換点に、水のバプテスマが位置しているのです。
@ @ @
これが「水のバプテスマのもつ効果」だと、春平太は解します。そして、これはイエスに関するものだけではなく、人間にも有効な一般的なもの、とみるべきではないか、と解読します。
聖書の論理では、生まれたままの人間には、創主の子としての面はありません。世的な意識で満ちた、世的な面が100%の人間です。そのまま、自然に成長していっても、状況は同じです。
しかし、聖書の言葉は、創主の意識を込めた、創主の王国から来る言葉です。聖書の言葉を学ぶ人間の意識には、創主の意識・思いが吸収されていきます。すると、ささやかであっても、創主の王国の意識が一面に出来ていきます。
もう一方の面は、世的な意識の面です。人が聖書の言葉を吸収しても、当初それが形成する意識は背後に存在するのみです。前面にはこの世的な意識が出ています。聖書的にはそれが、聖書を学びつつある人間の状況と見ることが出来ます。
@ @ @
けれども、水のバプテスマには、この二つの面の、比重を(最低限)変化させる力がある。聖書の言葉が形作る意識の面が、前面に出て、その分、世的な意識が後方に退く、ということです。
使徒パウロの次の聖句は、こうした推論を支持しているようにも見えます。
「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼とともに葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」(ローマ人への手紙、6章3~4節)
ここでパウロが引き合いに出しているバプテスマは、水のバプテスマ(浸礼)です。そして受洗の際、受洗者が水に沈むのは、この聖句での「彼(キリスト)とともに葬られた」というのを象徴しているように見えます。そして、水から上がるのは「キリストが・・・死人の中からよみがえらされたように、私たちもまた、新しいいのちに生きる・・・」を象徴しているように見えます。
また、水のバプテスマを受けた人の体験にも、それを支持するところがあります。「とにかく洗礼を受けようとして受けたのだが、受けた後、自分が変わったことを感じる」という体験談を聞いたことが春平太は少なくありません。
@ @ @
さらに、もしそうだとしたら、どうしてそうなるかの論理も、知りたいところですね。次の聖句を読んでみましょう。
「水と聖霊から生まれなければ創主の王国に入ることは出来ません」(ヨハネ伝、3章5節)
~~~これもイエスの言葉です。これと、先に挙げた今週の聖句とを並べてみましょう。
「信じてバプテスマを受ける者は救われます」(マルコ伝、16章16節)
ここで、「創主の王国に入る」と「救われます」は内容では同じことを言っていますよね。すると、「水と聖霊から生まれる」と「信じてバプテスマを受ける」も実質的には同じはず、となります。
故に、「水のバプテスマ」とは「水と聖霊から生まれる」ことだと解せます。つまりこれによって聖書では、水のバプテスマには、聖霊の介入がある、という論理に明確になっていることがわかってきます。
さらに、もうひとつ、イエスがバプテスマを受ける場面の聖句(前述)を、今一度ここに並べてみましょう。
「イエスが水の中から上がられるとすぐに、天が開けて、聖霊が鳩のように自分に下ってくるのをご覧になった」(マルコ伝、1章10節)
イエスが水のバプテスマを受けると、聖霊が下っています。そして、このイエスの時ほどに強烈ではないのですが、この聖句から「聖霊はバプテスマを受けたときその人に影響を与える」という解読を引き出すことも出来ます。
そして、これをバプテスマに内在する効果だと理解しますと、バプテスマ前後の人の変化は、説明がつくことになるわけです。
では、聖霊はどうしてそのとき下るのか?
これについては、春平太は説明できません。
論理的説明が不可であること、これすなわち、神秘です。そこは、神秘として、少なくとも当面、そのまま信頼して受け入れておこうと、春平太は思っています。
まあ、神秘があるから宗教でして、なかったら実証科学です。科学でしたら、信頼とか信仰といった意識は不要です。聖書を解読していった後に残る神秘は、春平太は信頼して受け入れることにしています。
<バプテスマには意志による選択と決断が必要>
以上で、バプテスマを受けることに関する、知識は概略得られたと思います。
最後に、春平太は、もう一つ確認しておくべきことを記して終わろうと思います。
前述のように、バプテスマは知識も信仰も不完全な状況で、受けるものです。そういう状況を本人が自覚していて受けるわけです。
そしてこれは実際には、当人の「意志」がないと出来ないものです。平たく言うと、「洗礼を受けたい」という欲求(wants)と、それに基づいた決断が必須になります。
前述した、このエチオピアの高官は、ピリポからバプテスマを受けました。彼は、ピリポの解説を信じたばかりでしたが、すぐ洗礼を受けました。もちろん彼にはこの時点で「この書物を探究すれば真理に到達するのではないか」という直感、霊感があったでしょう。
だが、「到達するのではないか」という予感だけではバプテスマを受けようという気持ちにはつながりません。やはり、探求したいという欲求と、「今後、探求するぞ」いう決断が加わらねば不可能です。
知識の量や「ここに真理があるのではないか」という確からしさの感覚(これが人間の、信仰という心理の中身です)だけでは、いくらあってもだめだということです。
人間には、完全を望む動機が埋め込まれています。やはり受けるには、「もう少し完全に近づかないと、いけないのではないか」というような反省というか、罪悪感のようなものは、他方から常に与えられます。
ところが、人間の聖書知識や信仰が100%の完全なものになることはありえません。だから、完全志向の心理に影響されますと、「もうこれで完全だ」と思えないが故に、バプテスマを受けないで生涯を送ることになります。
信仰も、知識もカラシ種ほどに小さくていいのです。その状態で、その神秘的な力、「バプテスマの神秘」を信頼し、自らにすばらしい変化が生じることを期待して、水のバプテスマは「意志して」受けるべきものであります。
++++++++
「私が変わって、バプテスマを受ける」のではありません。
「バプテスマを受けて、私が変わる」のです。
天の創主の王国の豊かさは、「先を争って奪い取るもの」というのが、イエスの教えです。
今週の賛美歌は「ああ めぐみ!」(聖歌、593番)です。
ああ めぐみ! (クリックすると賛美歌が流れます)
<今週の説教>
(聖句)
「信じてバプテスマを受ける者は救われます」(マルコ伝、16章16節)
+++++++++++++++++++++++
教会に通ったり、バイブルスタディに出席したりして、聖書を学んでいる人がいます。こういう人が学んでいく間に「バプテスマ(洗礼)はいつ受けたらいいか」という疑問を持つことはよくあるようです。
具体的には、聖書をよく知り、これを十分信じられるようにならないとだめなのか、そこまで行く前にしてもいいのか、というような疑問です。
@ @ @
しかし、それに答えるには、水のバプテスマというもののもつ、意味や力を考える必要があります。
上記に掲げた聖句は、イエスの言葉です。これは
「信じる」
「バプテスマを受ける」
「救われる」
~~~の三つの部分からなっています。
1.まず、「救われる」です。
これは聖書特有の用語で、「将来、最後の審判のとき、当人の霊が火の湖に送られるのはでなく、創主の王国(天国)に入ることを許可される」という意味です。
聖書では、この宇宙は、将来火で焼かれて消滅するという思想です。そして、創主の王国である天国と、火の湖とが残ることになります(「KINGDOM原理」のカテゴリーに示した「聖書の空間理念」の図を参照して下さい。)
そして、ミケランジェロの絵で有名な「最後の審判」が始まります。そのとき、「信じる」者は、当人の霊にある罪が、覆われて「罪なき者」とみなされます。そうして、創主の王国に入ることを許可される、ということになっています。
後は、創主の身元で永遠に存続することになります。火の湖も永遠です。そして、そういう約束をイエスは与えたという思想です。これを「救い(salvation)」という語で表現して、救いの約束といっているわけです。
2.次に「信じる」です。
何を信じるか、信じる対象は何か。これは一つには上記の約束です。そして、もう一つ重要なものがある。それは、イエスがそういう約束をすることが出来た根拠です。こちらは、罪なき創主の子イエス、死ぬ必要のないイエス、の身体が殺されることによって、人間の罪の代償を造った、という思想です。
代償を受けられるというのは、人間のために準備された資格、という論理です。聖書に記された福音(よき知らせ)とは「そういう資格が準備されたよ」というメッセージ、知らせです。資格は本当だと信じて受諾しないと実現しません。
たとえば、読者がある日突然、外務大臣に指名されたという知らせを受けたとします。ところが、そんなバカなことがあろうか、といって、本国の誰にも制約されない自由な旅をと、あらかじめ予定していた外国無銭旅行にぶらりと出かけてしまった。そうして、音信を絶ったらどうでしょうか。
大臣の認証式はすぐに始まります。総理の小泉さんは帰国して受諾してくれるのを長く待つことは出来ません。それで、他の人を任命しますと、彼の資格は消滅します。資格は、そのメッセージを受諾しないと、実現しないのですね。
ところが読者がそれを信じて受諾したらどうでしょうか。「田中真紀子だってしばらくつとめられた外務大臣だ。自分に出来ないはずがない」こう信じ、楽観して受け入れたらどうか。彼には外務大臣の資格が実現します。
<「信じる」意識は「確からしさ」の確率意識>
「なら、信じた方が得だ」
そう思うでしょうが、こういうメッセージを100%信じることは出来るでしょうか。それは無理な話でしょうね。
「救い」の約束は、死後のことに関する約束です。だけど、将来実際にそうなるかどうかなど、自分が死んでもいない今の時点で、明らかになるはずがないではないですか。
先を見通す千里眼があるなら別ですよ。だけど我々は、生まれてこの方、五つの感覚(五感)でしか、ものを認知できない状態で暮らしてきています。その結果、どうしても「見えるもの」を基盤にして物事を考えるようになってきています。そこに死後の約束を持ってきて、これを100%信じろと言うのは、言う方が無理というものです。
当人が、「自分の意識は自分でわかる。私は100%信じている。バカにするな、勝手に決めつけるな」といったとしてもですよ。人間には、自分で自覚できない潜在意識というものもあります。
@ @ @
でも、全く信じられないわけではない。聖書のメッセージを学ぶ人は、一定の確からしさも感じてはいるわけです。そのように、救いの約束を「信じる」というのは、一定のパーセントの「確からしさ」を感じる、「らしさ」の意識、確率の感覚です。
「本当らしさの感覚」を確率で言うならば、聖書の言葉を学び始めた出発点では10%かも知れません。あるいは、あるとき、理性的・論理思考が働いて、「見えないものが存在するかどうかの確率は、本来五分五分とみるべき」とかいって、50%になるかもしれません。論理的にはこれが出発点であるはずです。後にそれが60%に上がるかも知れません。
しかし、それらは、どのみち、本当「らしさ」であることには変わりありません。それでいいのか、それでバプテスマを受けていいのか。これが冒頭に示した「聖書を学ぶ人が抱いていく疑問」だったわけです。
@ @ @
こうなると、やはり聖書と照らし合わせねばなりません。すると、その結論は、「それでいい、100%でなくてもいい」となりそうです。
新約聖書の「使徒行伝」には、初めて福音を聞いて、「これを信じた人」に、イエスの使徒たちは、即座にバプテスマをしています。信じたと言っても、その信仰は、そんなに成熟したものではないでしょう。
同じ「使徒行伝」の8章26~39節にはこういう話も記されています。エチオピアの高官が、エルサレムに礼拝をしにきて、馬車で帰路をたどりつつ聖書を読んでいます。今や有名になっている
「ほふり場にひかれていく子羊のように、毛を刈るものの前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。・・・」(イザヤ書53章)
~~という旧約聖書の中の聖書です。高官は、この「彼」が誰のことを言っているかわからず思案していました。
他方、12使徒のなかにピリポと言う人がいます。このピリポに聖霊(創主の霊)が語りかけます。「高官に近づくように進みなさい」と。ピリポは高官に近づき、その「彼」がイエスであることを説きます。
高官は、その解説を正しい信じます。そして道の途中でバプテスマを受けることを望みます。ピリポはそれに応じ、水のあるところが見つかった時点で洗礼を授けています。
この時点で、高官には福音の論理構造が広く深くわかっているということはありえません。信仰も内容的には、そんなに成熟したものではないでしょう。信仰は未熟なままでいいのです。
<バプテスマの力>
3.さて最後は3の「バプテスマを受ける」です。
イエスが、「信ずるものは救われる」でなく、「信じてバプテスマを受ける」ものは救われるといっている以上、バプテスマには独自の役割があることに論理上なるでしょう。それが筋です。
具体的には、「本当らしさ」の信頼感覚に、何かを与えるのが、バプテスマではないか。そういう推察が出来ます。その上で、次の聖句を読んでみましょう。
「イエスが水の中から上がられるとすぐに、天が開けて、聖霊が鳩のように自分に下ってくるのをご覧になった」(マルコ伝、1章10節)
これはイエスはバプテスマのヨハネから、ヨルダン川でバプテスマを受けられる場面です。
マルコ伝の著者マルコは、続いて、
「すると天から『あなたは私の愛する子、私の心にかなう者である。』という声が聞こえてきた」(マルコ伝、1章11節)
と、書いています。マタイ伝の著者、マタイも、この状況を同じように記録しています。
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我々は当初これを読むと「へぇ~、不思議なことが起きるもんだなあ、やはり、イエスは違うなあ」と感じるくらいだと思われます。
だが、次のような解読も可能です。聖書では、この世に現れたイエスは、「創主の子(Son of God)」という面と、「人の子(Son of Man)」という面との二面を持った存在です。この二つの面の相対的な関係が、水のバプテスマを境に、はっきりと変わっているのです。
バプテスマ以前のイエスには、ダビデの子孫であり、大工の長男である、という「人の子」の面が前面に出ていました。創主の子という面は、いわばその影にありました。
しかし、バプテスマを受け、水から上がられたイエスには、創主の子という面が前面に出ていたと見ることも出来ます。もうダビデの子孫という面は、遙か後方に退いたのだ、と。
イエスが水から上がったその瞬間に、天から「これは私の心にかなう者」という声が下ったのは、それが「前面に出たこと」と関係していると解することが可能なように思います。
この時だけではありません。これを境に、イエスは別人のようになります。自らを「創主の子」と公衆に宣言し、「天の父」から受けたという「天の言葉」を権威を持って教え、つぎつぎにしるしと不思議を現していきます。以後、それは、受難、十字架死、復活、昇天と、最後まで続きます。
それ以前のイエスには、そうしたところは表に現れませんでした。こういう転換点に、水のバプテスマが位置しているのです。
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これが「水のバプテスマのもつ効果」だと、春平太は解します。そして、これはイエスに関するものだけではなく、人間にも有効な一般的なもの、とみるべきではないか、と解読します。
聖書の論理では、生まれたままの人間には、創主の子としての面はありません。世的な意識で満ちた、世的な面が100%の人間です。そのまま、自然に成長していっても、状況は同じです。
しかし、聖書の言葉は、創主の意識を込めた、創主の王国から来る言葉です。聖書の言葉を学ぶ人間の意識には、創主の意識・思いが吸収されていきます。すると、ささやかであっても、創主の王国の意識が一面に出来ていきます。
もう一方の面は、世的な意識の面です。人が聖書の言葉を吸収しても、当初それが形成する意識は背後に存在するのみです。前面にはこの世的な意識が出ています。聖書的にはそれが、聖書を学びつつある人間の状況と見ることが出来ます。
@ @ @
けれども、水のバプテスマには、この二つの面の、比重を(最低限)変化させる力がある。聖書の言葉が形作る意識の面が、前面に出て、その分、世的な意識が後方に退く、ということです。
使徒パウロの次の聖句は、こうした推論を支持しているようにも見えます。
「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼とともに葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」(ローマ人への手紙、6章3~4節)
ここでパウロが引き合いに出しているバプテスマは、水のバプテスマ(浸礼)です。そして受洗の際、受洗者が水に沈むのは、この聖句での「彼(キリスト)とともに葬られた」というのを象徴しているように見えます。そして、水から上がるのは「キリストが・・・死人の中からよみがえらされたように、私たちもまた、新しいいのちに生きる・・・」を象徴しているように見えます。
また、水のバプテスマを受けた人の体験にも、それを支持するところがあります。「とにかく洗礼を受けようとして受けたのだが、受けた後、自分が変わったことを感じる」という体験談を聞いたことが春平太は少なくありません。
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さらに、もしそうだとしたら、どうしてそうなるかの論理も、知りたいところですね。次の聖句を読んでみましょう。
「水と聖霊から生まれなければ創主の王国に入ることは出来ません」(ヨハネ伝、3章5節)
~~~これもイエスの言葉です。これと、先に挙げた今週の聖句とを並べてみましょう。
「信じてバプテスマを受ける者は救われます」(マルコ伝、16章16節)
ここで、「創主の王国に入る」と「救われます」は内容では同じことを言っていますよね。すると、「水と聖霊から生まれる」と「信じてバプテスマを受ける」も実質的には同じはず、となります。
故に、「水のバプテスマ」とは「水と聖霊から生まれる」ことだと解せます。つまりこれによって聖書では、水のバプテスマには、聖霊の介入がある、という論理に明確になっていることがわかってきます。
さらに、もうひとつ、イエスがバプテスマを受ける場面の聖句(前述)を、今一度ここに並べてみましょう。
「イエスが水の中から上がられるとすぐに、天が開けて、聖霊が鳩のように自分に下ってくるのをご覧になった」(マルコ伝、1章10節)
イエスが水のバプテスマを受けると、聖霊が下っています。そして、このイエスの時ほどに強烈ではないのですが、この聖句から「聖霊はバプテスマを受けたときその人に影響を与える」という解読を引き出すことも出来ます。
そして、これをバプテスマに内在する効果だと理解しますと、バプテスマ前後の人の変化は、説明がつくことになるわけです。
では、聖霊はどうしてそのとき下るのか?
これについては、春平太は説明できません。
論理的説明が不可であること、これすなわち、神秘です。そこは、神秘として、少なくとも当面、そのまま信頼して受け入れておこうと、春平太は思っています。
まあ、神秘があるから宗教でして、なかったら実証科学です。科学でしたら、信頼とか信仰といった意識は不要です。聖書を解読していった後に残る神秘は、春平太は信頼して受け入れることにしています。
<バプテスマには意志による選択と決断が必要>
以上で、バプテスマを受けることに関する、知識は概略得られたと思います。
最後に、春平太は、もう一つ確認しておくべきことを記して終わろうと思います。
前述のように、バプテスマは知識も信仰も不完全な状況で、受けるものです。そういう状況を本人が自覚していて受けるわけです。
そしてこれは実際には、当人の「意志」がないと出来ないものです。平たく言うと、「洗礼を受けたい」という欲求(wants)と、それに基づいた決断が必須になります。
前述した、このエチオピアの高官は、ピリポからバプテスマを受けました。彼は、ピリポの解説を信じたばかりでしたが、すぐ洗礼を受けました。もちろん彼にはこの時点で「この書物を探究すれば真理に到達するのではないか」という直感、霊感があったでしょう。
だが、「到達するのではないか」という予感だけではバプテスマを受けようという気持ちにはつながりません。やはり、探求したいという欲求と、「今後、探求するぞ」いう決断が加わらねば不可能です。
知識の量や「ここに真理があるのではないか」という確からしさの感覚(これが人間の、信仰という心理の中身です)だけでは、いくらあってもだめだということです。
人間には、完全を望む動機が埋め込まれています。やはり受けるには、「もう少し完全に近づかないと、いけないのではないか」というような反省というか、罪悪感のようなものは、他方から常に与えられます。
ところが、人間の聖書知識や信仰が100%の完全なものになることはありえません。だから、完全志向の心理に影響されますと、「もうこれで完全だ」と思えないが故に、バプテスマを受けないで生涯を送ることになります。
信仰も、知識もカラシ種ほどに小さくていいのです。その状態で、その神秘的な力、「バプテスマの神秘」を信頼し、自らにすばらしい変化が生じることを期待して、水のバプテスマは「意志して」受けるべきものであります。
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「私が変わって、バプテスマを受ける」のではありません。
「バプテスマを受けて、私が変わる」のです。
天の創主の王国の豊かさは、「先を争って奪い取るもの」というのが、イエスの教えです。