
ヨハネの推論は展開します。
では、イエスの言葉とはなにか。
それは創造主から出た言葉にイコールである。
ヨハネは、それをイエスのーーー
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「わたしは、私自身の権威によって語っているのではない。私をつかわされた父ご自身が、言うべく、語るべく命じられたことを語っているのである」(12章49節)
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ーーーと、つなぎ合わせることによって悟りました。
そうだ、イエスの言葉はすなわち創造主の言葉なのだ。
その言葉が肉体になったのが、この世に「人の子」となって住まわれたイエスの身体だったのだ。
ならば、あの方は、そもそもは創主の言葉だったのだ!
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創造主は、万物の創り主であり、万物が出現する前から、永遠の過去から、
ただ一人で存在してこられた方~というのが聖書の基本思想です。
すると、御子イエスとは何になるだろう?
この方は、創主の言葉、ロゴスである。これは間違いない。
すると、それは創主「から出た」ことになるだろう。
そうだ! あるとき創主から言葉が出た。これが創主の子イエスの本質だったのだ。
創主から出た言葉「によって」造られたのではない。
それだったら被造物になってしまう。
そうではなくてこの方は、創主の内の内から「出た」言葉そのものだったのだ。
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ヨハネは、そう悟っていきました。
かくして、彼がイエスの伝記を書くとなれば、そこから始めるしかなくなりました。
彼はおもむろに第一筆を記しました・・・・。
「はじめに言葉(ロゴス)があった。」
そして、こう続けました。
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「言葉(ロゴス)は創主と共にあった。ロゴスは創主であった」(1章1節)。
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彼はこの聖句によってのみヨハネ伝を始めることが出来たのです。
~こう気がついたとき、春平太は、ヨハネという人物の知性と霊性の深さに圧倒されました。
