鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.16 『わたしの言葉は創主の言葉(12章)』

2004年11月23日 | ヨハネ伝解読





ヨハネの推論は展開します。
では、イエスの言葉とはなにか。
それは創造主から出た言葉にイコールである。

ヨハネは、それをイエスのーーー

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「わたしは、私自身の権威によって語っているのではない。私をつかわされた父ご自身が、言うべく、語るべく命じられたことを語っているのである」(12章49節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

          ーーーと、つなぎ合わせることによって悟りました。

 そうだ、イエスの言葉はすなわち創造主の言葉なのだ。
その言葉が肉体になったのが、この世に「人の子」となって住まわれたイエスの身体だったのだ。

ならば、あの方は、そもそもは創主の言葉だったのだ!


      @      @      @



創造主は、万物の創り主であり、万物が出現する前から、永遠の過去から、
ただ一人で存在してこられた方~というのが聖書の基本思想です。

すると、御子イエスとは何になるだろう?

この方は、創主の言葉、ロゴスである。これは間違いない。
すると、それは創主「から出た」ことになるだろう。

そうだ! あるとき創主から言葉が出た。これが創主の子イエスの本質だったのだ。

創主から出た言葉「によって」造られたのではない。
それだったら被造物になってしまう。
そうではなくてこの方は、創主の内の内から「出た」言葉そのものだったのだ。


      @      @      @


ヨハネは、そう悟っていきました。
かくして、彼がイエスの伝記を書くとなれば、そこから始めるしかなくなりました。
彼はおもむろに第一筆を記しました・・・・。

 「はじめに言葉(ロゴス)があった。」

 そして、こう続けました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「言葉(ロゴス)は創主と共にあった。ロゴスは創主であった」(1章1節)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

彼はこの聖句によってのみヨハネ伝を始めることが出来たのです。

~こう気がついたとき、春平太は、ヨハネという人物の知性と霊性の深さに圧倒されました。







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Vol.15 『身体は言葉が変化したものだった(1章)』

2004年11月23日 | ヨハネ伝解読




ヨハネの頭はグルグルと回ります。
そうだ、あの方の教えのエッセンスは、理屈としては簡単だったのだ。

 「わたしの言葉が諸君の内に留まるようにしなさい」

 ~これだった。
イエスの言葉が、自分の意識の内に、霊の内に留まっていること、それがゴールだったのだ。

 それをあの方は~

 「わたしの肉を食べ、血を飲まねば・・・」

 ~と言われたのだ。
これは喩えではない。喩えならこんな表現になるはずがない。事実そのものを言っているのだ。
あの方の肉、血の実体は、言葉だったのだ・・・。

これが、ヨハネの内で最後まで残った疑問への解えでした。
そして、この解答が、ヨハネ神学の門を開きました。

門に入った第一歩には1章14節の聖句がありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「言葉(ロゴス)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(14節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  ~がそれです。ヨハネによる福音書は、ここを起点にしています。
そして、このヨハネ神学の大半は、ヨハネ伝の第1章に凝縮しています。





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Vol.14 『私の言葉が諸君の内に留るなら(15章7節)』

2004年11月23日 | ヨハネ伝解読





 「イエスの身体とは何だったのか?」
 この疑問があるときヨハネの中で、もう一つのイエスの教えと結びつくときが来ました。

もう一つとは~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「・・・わたしの言葉があなた方の内にとどまっているならば、何でも望むものを求めなさい。
それらは与えられます」(15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


   ~であります。ここにも「言葉」が出てきます。

前述のように、言葉は意識を含めています。
イエスの言葉が人の内にとどまるというのは、その言葉の含むところの意識が留まっている、
ということでもあるわけです。

つまり、その人の中に、イエスの意識が内住すると言うことだ。

そうなると、その人が何か意識活動をしたり行動しようとするときも、
内住したイエスの意識がそれをリードするようになります。

つまり、イエスの意識でもって言動するようになる。
そうなったら、その人の望むものは何でも、創主に祈り求めたら、与えられる、
---とイエスはいうのです。


+++

 実際、そのことが後に使徒たちに生じたという記述が、「使徒行伝」になされています。
たとえば~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「また、エルサレム付近の町々からも、大勢の人が、
病人や汚れた霊に苦しめられている人たちを引き連れて、(使徒たちのもとに)集まってきた。
その全部の者が、一人残らずいやされた」(使徒行伝、5章16節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ーーーにそれが示されています。
使徒たちの癒しの祈りへの答えが、このように与えられたわけです。


      @      @      @


 大変結構なことです。だが、こうなるのは容易ではありません。

聖書には、天の王国の意識と、この世の意識は絶対的な対立関係にある、という鉄則のような思想があります。
この世のものの意識は、基底的に悪魔に影響されている、という把握があるからです。

悪魔は、天の王国の王であり、天の意識の源である創造主と絶対的な対立関係にある存在です。

 だから、イエスの言葉が我々の内に入っても、通常は、留まらないことになるわけです。
留まるというのは、その言葉がいつも自分の内で活きて動いていることです。
動いているから、いつも自覚できている。忘れようとしても忘れられない、という状態です。

これが、なかなか難しいのです。
我々の内にある「世」の意識が、「天」の意識を含んでいるイエスの言葉を、吐き出させてしまうからです。

基本的に異質であるが故に締め出してしまうことになる。
それが現象としては、すぐに忘却してしまうという姿になるわけですね。


      @      @      @


 イエスの言葉がこの世にすむ人間の内に留まるには。いわゆる、「知ってる」くらいではダメです。
少なくとも「身について」いないといけない。

身に付く、というのは、たとえて言えば、その言葉が完全に消化されて、
その人の血肉として定着してしまうことですね。
もう、締め出そうにも締め出すことが出来ないように、血肉に同化していることであります。

+++

 ・・・ヨハネは、この考えに至ったのではないでしょうか。
そして、そのとき彼の内で、言葉とイエスの身体とが結びついた。
天啓のごとくに結びついた。

「そうだ! あの方の身体は、言葉だったのだ。
創主から出た言葉が人の身体の形に化したものだったのだ!」
~と。





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Vol.13 『刺したら血と水が出た(19章)』

2004年11月23日 | ヨハネ伝解読






 イエスの身体とは何だったのだろうか? という疑問に対する、ヨハネの思索の続きです。

 「私の肉を食べ、血を飲むということなしには諸君の内にいのちは無い」というイエスの言葉、
そして、「これは私の肉であり、血である」といって
パンと葡萄酒を弟子たちに与えた最後の晩餐での出来事・・・。

 これに加えて、ヨハネは後にさらにショッキングなことを観察します。
十字架上で死んだイエスの脇腹を、ローマの兵士が槍で突き刺します。
おそらく死んでいることを確認するためでしょう。すると~、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「即座に血と水が流れ出た」(19章34節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ~のでした。
他の人々は、その凄惨な場面を観て気持ちが動揺したことでしょう。
だが、ヨハネは、衝撃を受けつつ、これをじっと観察していました。

だから「これを見たもの(自分のこと)が証言している。その人は、自分が真実を語っていることを知っている」
とダメを押すように書いているのです。ヨハネだけが、これを書いています。

 ここでヨハネの心に残ったこと、それは~
「この方の身体は、人間の身体とは別のものだったのではないか・・・」
~これであります。

そして、そのことは、後に彼にとって貴重なヒントになったに違いありません。

そのことと、イエスが「わたしの肉を食べ、血を飲まなければ、あなた方に命はないんだよ」といったこととは、
何らかのつながりがあるのではないか・・・、こういういう思考展開ですね。
こういう仮説を心に浮上させるヒントになったと思われるのです。

イエスの身体がそういう別物であった。だから、「飲食するといのちが得られる」と言っておられたのではないか・・・。

あの方がこの世に生きておられた際の、あの身体とは、結局何だったのだろうのか・・・。
ヨハネの思惟は続きます。





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