鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

キリスト教に潜む迷路・2

2005年01月01日 | 聖書思想の基礎知識


<全能者が王として統治する世界>

 天国は王国です。ここは人民が政治をする民主国と違って、王が統治します。国の秩序を造る法も王が作ります。造ると言うより、王の口から出た言葉がそのまま法になる、といった方がいいでしょう。国民は、それに従って生活するのです。

こういわれれると、そこは独裁国で苦痛が多そうだとイメージする人も多いでしょう。それは人間の王様を想定して考えているからです。

 認識能力・判断能力・愛情能力に限りがある人間が、独りで全権を握ってやれば人民に多大な苦痛を与えることになります。

 しかし、創主は全知全能で、人民の幸福を願う愛情にも限りがない超自然的な存在です。そういう存在が王として統治する世界は、人間が民主主義で治める世界など比較にもならない、完全幸福の世界です。

 聖書は、そういう王国世界が、宇宙を超えた広大な空間としてあると教えています。その想像を絶する豊かさ、溢れるばかりの富、正義の貫徹・・・そしてこれらにふんだんにあずかる民になる道を、教えようとしている本です。


<信仰は信頼(faith)>

 キリスト教でも、信仰という言葉がよく出てきます。英語のfaithの邦訳ですが、あまりいい訳ではありませんね。むしろ「信頼」の方がいいです。

 なぜなら、これは、創主の王国という純イメージ世界に関するリアリティ感、実在感にかかわる言葉だからです。人間には不思議な能力が与えられています。自分の意識の中のイメージ世界に関しては、それが物理的イメージ世界、純イメージ世界であるかをとわず、一定のリアリティ感を持つことが出来ます。

 リアリティ感、すなわち、「これは本当らしい、という感覚」です。聖書では、そこに紹介されている創主の王国が「本物らしい」と感じられていく状態を、信頼(faith)のある状態といいます。言ってることに信頼を抱いているわけですからね。

 これを世上「信仰ある状態」と言っています。しかし、信頼した上に「仰ぐ」までは必要ないのです。必要条件は信頼していることのみ。「仰ぐ」のはおまけです。こういうおまけのニュアンスを入れるから、紛らわしくなり、聖書論理を理解する障害になるのです。

 世に信仰と称されているところの心理の実体は、信頼です。言われていること、教えられていることへのへの信頼感。

 そして大事なことがあります。信頼感は自然に生じてくるものだということです。「信じなさいっ!信じなさいっ!」と命令してもどうなるものでもない。「信じますっ!」と絶叫してもどうなるものでもありません。

 ところが、聖書を学ぶと、あるいはその話を聞くと、もう信じなければ悪いような気持ちになる人が多いです。信じる義務が伴うように思ってしまう。

 さらに、信じなければ罰せられる、宗教の話は怖い、とそれがエスカレートします。そうして最初から脇道に逃げ込んでしまう。これが第二の迷路です。これ、日本にとても多いです。
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キリスト教に潜む迷路・1

2005年01月01日 | 聖書思想の基礎知識
聖書の教えを探求しようとする人を、キリスト教活動では求道者といいます。通常この言葉は、洗礼を受ける前の人に対して用いられます。しかし、洗礼を受けた人でも、聖書に基づいてその教えを探求しようとしている限り、やはり求道者です。

 そして、人が聖書探求者の姿勢を維持し続けている限り、その人は精神の自由を得ることが出来ています。それをやめたときには、たとえクリスチャンであっても、自由を失い、精神的束縛の道に入ります。

 春平太は、それをキリスト教の中に潜んでいる迷路と、捉えています。人が宗教を学ぼうとするのは多くの場合、何らかの意味で自由を得たいからでしょう。病からの癒しもそうです。それは肉体的苦痛からの自由です。

 恐れから逃れたい、というのもそうでしょう。それは恐怖による精神的束縛からの自由です。キリスト教の場合、それは聖書探求者のスタンス・姿勢を維持することによってのみ得られるのです。

 鹿嶋春平太チャペルでは、この自由を重視します。そのために、あらかじめ、自由を失う迷路、束縛への迷路を明るみに出しておこうと思います。聖書の「基礎知識」というには、若干理屈っぽすぎるきらいはあるのですが、やはりそれは基礎です。

 これをしておきませんと、キリスト教をしていても、人は迷路の中に迷い込むのです。「正しい知識のないことが、不幸の源」です。やっておきましょう。

<聖書が教える中核は創主の王国の有様>

 キリスト教の教典は聖書です。この宗教に関心を持つものは、まずは聖書の言っていることを探求することになります。

 聖書には実にいろんなことが書かれています。しかし、その中核は「創造主の王国」とはどういうものか、の知識です。要するに、これを知れば、他の問題はみな解けてくるのです。

 創造主の王国とは、別名、天国とも呼ばれています。しかし、正確にはKingdom of God, すなわち、創主の王国です。これはGod's Kingdom of Heavenと言われることもあります。「天の創主王国」ですね。

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 春平太は、この「聖書思想の基礎知識」のカテゴリーの最初に、聖書は「自分以外の万物を作った創造主がいる、という大前提で書かれている本」という旨のことを言いました。このことを明確につかんで読まないと、聖書の思想は漠然としか理解できません。

 聖書の最初に収録されている書物は「創世記」です。その冒頭に、「はじめに創主が天と地とを創造した」と書かれています。創造主の存在を前提としていない人には、この聖句はナンセンス、意味をなさなくなります。

 かくのごとく、創主の存在を明確に前提する。これが第一です。

 第二は、「その創主が自ら王として統治する王国を持っている」ということです。これが今回の話に関連しています。ここでは王なる創造主の意図や正義が貫徹しています。我々の住む地上では、そうでないところが多いのですが、創主の王国ではそれが貫徹しているという思想なのです。

 我々の住む地上の世界とは別に、そういう創主の王国が存在する。これも明確に自覚しておかないと、聖書の思想理解は読み進めるにつれて漠然としてきます。

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 そこでまず大切なのは、聖書ではその天国はどこにあり、どうなっているか、我々の住む地球とはどういう位置関係にあるかーーーです。春平太はそれを図式で示しています。「KINGDOM原理からの聖書解読」の中の、「聖書の空間理念」のこうをご覧下さい。そこに図をクリックすると拡大して見ることが出来ます。

 これが示しますように、聖書の空間理念では、我々の住む宇宙は、創主の王国(天国)の中の一部にあります。そして、その宇宙の中に地球があります。

<物理的イメージ世界と純イメージ世界>

 創主の王国を我々は五感でもって経験的に認識することは出来ません。けれども、人間には想像力(imagination)という、驚くべき能力が与えられています。それでもって我々は経験的素材のないものについてもイメージを描くことが出来るのです。

 もちろんわれわれは、経験対象のあるものについてもイメージを描けます。山とか海とか木とか動物などは物質です。こういう物的なものは、五感で認識することが出来ます。

 山はたとえば五感覚のうちの視覚でもって捉えられます。その映像が眼球の網膜に映ります。それをもとに、我々は経験的な認識をいたします。

 しかし、我々の意識の中には、網膜に映ったそのままのものが留まるのではありません。我々はそれを意識の中で加工してイメージを造っています。たとえば愛する人に関しては、その人の嫌いなところは取り除き、好ましいところだけを取り出してイメージを造ったりしています。

 反対に、憎い人に関しては、その憎々しい部分だけを取り出してその人のイメージを造っているかも知れません。が、とにかく、物理的な対象に関しても、我々は結局一つのイメージ世界を“造って”認識しているのです。

 その際、イメージ世界を二つに分けておくと、後々の思考の助けになります。その一つは、今述べたような、物理的な認識対象があって、五感覚で捉えたそれを踏まえて造っているイメージ世界です。これを春平太は「物理的イメージ世界」と名付けています。

 もう一つは、物理的な認識対象を持っていないイメージの世界ですね。純粋にイメージだけでもって形成している世界。これを「純イメージ世界」と呼びましょう。

 先ほど述べた「創主の王国」のに関するイメージ世界はこれに属しています。 私たちは、聖書の言葉を頼りにこれに関するイメージを描きます。聖書が教える創主の王国は、われわれ人間にとっては純イメージ世界、ファンタジーの世界です。

<はじめはファンタジーから>

 聖書を学んでみようという人は、このことをまず明確に自覚するのがいいでしょう。聖書のお話は、はじめは基本的にファンタジーの世界、純イメージ世界なのです。

 これは物理的現実に対応した世界、物理的イメージ世界ではありません。だから、それが物理的現実に対応しているかどうか、その話が現実妥当性があるかどうか、などと検討するのはナンセンス、意味がない、的はずれということです。

 この純イメージ世界が、実は世界の現実に対応している・・・という感覚(これをリアリティ感といいます)、これが心に芽生えるかどうかは、後の問題です。そこに行くには、聖書の述べているところを沢山学んで、イメージを詳細にしていかなければなりません。

 なのに、最初の段階から、少し話を聞いて「そんなことあり得ないよ」とか「馬鹿馬鹿しい・・・」などと思うのは、ホントにばかばかしいことです。

 でも、そのケースは多いのです。こうして、もっと現実的な話を・・・、と言う方向に向かっていく。これが第一の迷路です。ファンタジーの世界の話、と悟って読み、また聞いていけばいいのです。

まだあります。
 次回は、第二の迷路をお知らせします。
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