この後、3章22節以降では、ヨハネは、一転してバプテスマのヨハネの証言を記しています。
前述したとおり、バプテスマのヨハネは彼の前の師匠だと推定されます。その師匠は相変わらずユダヤ地域で、人々に悔い改めのバプテスマ(水に沈める洗礼:浸礼)を施しています。エルサレムでニコデモに教えを述べた後、イエスの一団もその地域に行ってバプテスマを施します。
そこで、著者ヨハネは前の師匠のところに出かけたのでしょう。だから、前師匠の言葉を聞いて書けたわけです。挨拶にでも言ったのか、あるいは、あいかわらず前の師匠との交わりも維持したのでしょうか。
著者ヨハネは不思議に全方位な人なようです。性質の異なったグループの人々にも、なぜか受け入れられるタイプの人。後に、イエスがとらえられてユダヤ教の司祭の館に連れて行かれると、彼は、そこにも入れてもらっています。
どんな人でも安心させる雰囲気を持っていたのでしょうか。人柄としか言いようがありません。もうひとりのイエスの側近・ペテロとは対照的です。
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さて、その前師匠のところに、ユダヤ人たちがやってきてこういう旨のことを言います。
「あなたが創主の子羊だと証言したあの人も、川の向こう側で弟子たちにバプテスマを施させていますよ。そして、みんなあっちの方に行ってますよ」(26節)
底意地の悪い言葉かも知れませんね。「あなた、負けていますよ」といって、自尊心を傷つけ、刺激する。こういう人現代にもいますよね、あちこちに。これを“邪気ある”言葉と言うことも出来ます。
彼らは、バプテスマのヨハネが、「自分の教義の方がイエスより優れている」と懸命に説くのを期待したのでしょうか。邪気ある人間というのは、そういうことをさせて喜ぶものです。ところが、前師匠は意外なことを言っています。
「人は、天から与えられなかったら、なにも得ることは出来ない」(27節)
「私はキリスト(救い主)ではない。救い主の(その前座か、あるいは露払いのような役割をすべく)先につかわされた者なのだ」(28節)
「あの方は栄える。私は衰退していく」(30節)
ーーーと。
「邪気あり」のユダヤ人たちは、拍子抜けしてしまいます。ナンヤ、えらい謙虚な男ヤナ、ちっともオモロナイワ・・・といったところでしょうか。