鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.41『御子を信じない者はすでに裁かれている(3章)』

2005年01月12日 | ヨハネ伝解読
前回の続きです。
 
 「イエスはこの世に、裁くために来たのではないんだ、救うためなのだ」

 と、うれしいことを言ってくれるヨハネです。だが、すぐ続いてこんなことも言います。

 「御子を信じるものは、裁かれない。だが、信じない者はすでに裁かれている。創造主のひとり子の御名を信じなかったからである」(18節)

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 やはり、裁きはあるというのですね。しかも、このイエス自らに直接語られた者でそれを受け入れなかった者は、とりわけ厳しい状況に置かれることになっています。

 生まれた時代が不運だったというか・・・。そう言えば、日本の歌謡曲にも「生まれたときが悪いのか、それとも僕が悪いのか・・・」といった歌詞の曲がありましたね。確か「昭和ブルース」とかいいませんでしたか。亡くなった俳優・天知茂さんが渋い顔をして歌ってました。

 彼らについては、最後の審判で吟味される機会すらも、もう与えられていないというのです。すでに裁かれている、というのですからね。創主の子に直接対面しながら、それを拒否した罪は別格に重いというのでしょうか。

 ですから、イエスは「救うために来た」、といっても、そんなに甘いことにはなっていないのですね。そう手放しで喜んでられるようなものでもないようです。
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Vol. 40『ひとり子を賜わったほどに・・・(3章)』

2005年01月12日 | ヨハネ伝解読
また、前に進みましょう。
 「イエスが十字架につけられたのは、その彼が創主のつかわした救い主だと信じるものが、すべて永遠のいのちを得られるためである」

 ・・・ここまで伝え記したヨハネは、突然、自らの思いを語り始めてしまいます。あたかも押さえに押さえてきたものが、胸から吹き出すかのように。彼は書きはじめます。

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 「創主は、そのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠のいのちを得るためである」(16節)

 この聖句は、多くのクリスチャンに喜ばれている文章です。この言葉に感激し、クリスチャンになった人も少なくありません。だからとても有名でもあります。

 彼らはこれこそ聖書の教えの神髄を示している聖句と受け取っているのです。日本の神学者さんには、「聖書の中の聖書」と言う人もいます。聖書の神髄は「神は愛なり(God is Love)」だというのです。

 しかし、ここは冷静な姿勢も必要になるところです。我々人間には、感激しやすい文章であるだけに。「神は愛です」といっても、聖書の論理では、創主は全身これ愛の固まりというわけでもないのです。100%愛というわけではない。

 たしかに、続いてヨハネが書く、次の文はそういう気持ちをさらに一層助長してくれはします。

 「創主が御子を世に使わされたのは、世を裁くためではない。御子によって、この世が救われるためである」(17節)

 この16,17節をあわせ読んで、そうでしょう「神は愛」であることに疑いの余地はないでしょうーーーと。

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 けれども、聖書全体の論理はそう単純ではありませんよ。こういう聖句もあります。

 「それから、イエスご自身が生ける者と死んだ者との審判者として、創主に定められた方であることを、人々に宣べ伝え、またあかしするようにと、創主は私たちにお命じになったのです」(使徒行伝、10章42節)

 これはヨハネと共にイエスの両脇を固めた角さん、ペテロが行った説教の一部です。コルネリオという信仰深い人の家に集まっていた多くの人々に、彼はこのメッセージを与えているのです。

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 また、助さんヨハネ自身が延々と与えられた幻を記録した「黙示録」にも、こういう記述があります。

 「また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。・・・(中略)・・・死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、裁かれた」(黙示録20章12節)

 これはいわゆる「最後の審判」の光景です。そしてこの御座に座っているのはイエス以外にありません。イエスは最後の最後には裁き主ともなることになっているのです。

 だが、それは、この世が火で焼かれて消滅した後の話です。イエスが「この世に来たのは」裁く「ため」ではなく救う「ため」である、とヨハネは17章で述べているのです。

 「ため」というのは「この世に来た」、主たる「意図」を言っています。33年という限られた生涯の期間についてだけのことです。もっと長期の全体の中では、イエスは、やはり裁き主にもなるというのが、聖書の思想なのですね。
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地で拘束するものは天でも

2005年01月12日 | KINGDOM原理からの聖書解読
聖書には「天の王国にはこの地上と対応する場所がある」という奥義があるのではないか、の続きです。もう一つ、聖句をあげて考えておきます。ここは、とても大事なところに思うからです。

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 マタイ伝の16章に、イエスの次のような言葉があります。弟子のペテロに語ったものです。

 「私はあなたに天の王国の鍵を与えます。あなたが地上で拘束するものは、天でも拘束されます。そして、あなたが地上で解放するものは、天でも解放されます」(マタイ伝、16章19節)

 意味のわかりにくい聖句ですね。これなど、「天の王国に地上に対応する場所がある」と考えたときのみ、かろうじて事態が明確にイメージできるようになるのではないでしょうか。

 「拘束(bind)する、解放(loose)する」というのは具体的に何を拘束し、何を解放するのか、難しいですね。これがはっきりわかったら誠に有り難いです。しかし、それが漠然としたままでも意味が解せそうです。

 (当面、春平太の意識に来るのは、「闇の権(悪魔、悪霊の力)を縛る、拘束して働けないようにする」と「その闇の権から人を解いて解放する」です。しかし、ここは急がないようにいたします)

 そこはとにかく、「何かを拘束する、解放する」にしておきます。でもそこに地上のことと天の一部とは対応している、という思想があるならば、一つの解読を考えていくことが出来ます。

 つまり、イエスはこういっていると解するわけですーーー「ペテロよ、あなたが地上で何かを拘束すれば、その行為は天の王国でも実現されるように、あなたが望めばそうなるようにしましょう。何かを解放すれば、あなたが望めば天の王国でもその行為が実現しているようにしましょう」と。

<天の王国でもそれを実現させる鍵> 

 これは特別なことでしょうか。そうだと思われます。天の王国で実現するのは、創主の「御心にかなったものだけ」です。前回示しました「主の祈り」の、「御心が天になるごとく・・・」はそのことを示しています。

 創主の御心にかなっていないことは、地で行っても天では同じことが実現されることはないわけです。そして、地だけで実現しているものは、みな、消滅していく。お釈迦様の説かれる諸行無常の法則に従っていくわけですね。

 だから、地上で実現することがすべて、天の王国でも対応して実現することはありません。この世での多くの行為はそうでしょう。「だが、ペテロが束縛したり、解放したりする行為は、あなたが望むものにはすべてそうするよ」ーーーこういう風に上記のイエスの言葉を解読することが出来ます。

 そして、そういう特権を与えることを、「天の王国の鍵を与える」とイエスは言っていると解するわけです。天の王国(の、地上に対応した場所)を開いて、地上で実現したことを天にも実現させることの出来る特権ですね。

<地上での束縛、解放が持続力を増す>

 天にも束縛や解放を実現させると、何かいいことはあるのか。あるでしょうね。地上で実現したことは、時とともに消滅していきます。だが、天にも実現しているとなると、地上でのそれは持続力を持つことになるでしょう。

 天で実現されたものは、反復上演され、持続するものだからです。地上で実現されたものが、消滅していっても、また祈りでもって、天から“降ろせば”再現する。そういう資格を持ったことになる、と考えられます。すると、地上でのそれは同時に力の強いものにもなるでしょう。

 ペテロの地上での拘束と解放には、そういう特性が与えられた、という道理になります。解読が妥当かどうかは、おのおの考えてみて下さい。
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