鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.38『“母は天国に”・・・そして読経の声!(20章)』

2005年01月07日 | ヨハネ伝解読
 以上に見たように、聖書では、パラダイスとは天国にイコールではないのですね。それは、天国よりは下方の、この宇宙の中のどこかにある、という思想です。

 ヨハネ伝20章にも、それを示唆する聖句が記されています。
 イエスをとりわけ深く信じて付き従った女がいます。マグダラのマリアといいます。

 彼女はイエスが十字架死した後の三日目に、亡骸を葬った新しい墓に真っ先に行きます。そして、イエスの亡骸が墓から消えているのを発見するのです(20章1-2節)。

 急いで、ペテロとヨハネに報告する。助さん角さんはお墓に走ります。そして、遺体のないことを確認して帰ります。

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 マリアは、ひとり墓の外に立って泣いています。と、その彼女に語りかける人がいる。復活したイエスです。イエスは、まず、墓の前で泣いているマリアに現れるのです。「おんなよ、なぜ泣いているのか・・・」 感動的なシーンです(11-16節)。

 マグダラのマリアは、喜びのあまりイエスにすがりつこうとします。するとイエスは下記のように言った、とヨハネは記しています。マリアは弟子たちにその状況を説明します(18節)。それを聞いてヨハネは書いているのです。

 「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから」(17節)

  ーーーこれは、どういうことでしょうか。イエスは、その2日前に隣の十字架につけられた罪人を連れてパラダイスに行くと言っています。そして、2日目のこの日に「まだ、父のみもと(天国)に上ってない」というのです。

 これすなわち、パラダイスは天国ではない、ということですね。

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 なのに、この頃我が国では、天国に行ったという言葉が大流行であります。
 
 テレビの芸能ニュースなんかで、芸能人の親族の葬式がよく報道されます。報道陣に応対すべく入り口に出てきた芸能人さんがコメントする。「母は、今頃天国から私を見守ってくれています・・・」 

 その一方で、中から読経の声が聞こえてくる。お経を読むのは仏教です。仏教なら、極楽でしょう。それを何で天国というか。

 天国は、キリスト教用語ですよ。なぁーんか、スマートなんでしょうかね、天国といった方が。お葬式も、ファッションなんですね、わがニッポン国は・・・。だけど、それでは、和式・洋式のナガサキチャンポン。いや、日本チャンポン・・・。

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 だけど、キリスト教だって、行っているのは天国ではありませんよ。聖書では、天国はこの宇宙が火で焼かれて消滅し、最後の審判がなされた後に、イエスの教えを信じた者が行くところです。それまでは、信仰の勝利者はパラダイスにいることになっているのです。

 なのに、教会のお葬式に行くと「天国に凱旋されました」などと説教されるの多いですね。

 これは、要するにですね、我が国では聖職者といわれる方々も、聖書をきちんと読んでいない。それを証明していることになりますね。その結果、ニッポンキリスト教とでも称すべき独特の教えがなされがちになるんですね。
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Vol.37『パラダイスとはどういうところか?(黙示録2章)』

2005年01月07日 | ヨハネ伝解読
 パラダイスとは、どういうところでしょうか。聖書ではそれについて、あまり、多くを語っていません。記されているところとしては、次の二カ所以外に春平太は知りません。

 「聖霊が諸教会に言われることを聞くがいい。勝利を得るものには、創主のパラダイスにあるいのちの木からとって食べることをゆるそう、と」(黙示録、2章7節)

   ーーーが、その一つです。

 これは、イエスが死んで、復活し、天国にのぼった後に、ヨハネに啓示された言葉ということになっています。ここで、勝利とは、世の論理に巻き込まれないで、最後まで聖霊の示される天の論理に従いきることを言っています。これを短く業界用語で言いますと「信仰の勝利」ということにもなります。

 ともあれ、そういう信仰の勝利者が行くところがパラダイスである、と上記の聖句は示唆しているわけです。そして、そこにはいのちの木があるという。信仰の勝利者は、そこでその木からとって食べることを許される、という。だったら、これは、いいところでしょうね。

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 では、それはどこにあるか。もう一つの聖句がそれを示唆しています。

 「わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は14年前に第三の天まで引き上げられた。・・・・(中略)・・・この人が、パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表せない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている」(コリント人への第二の手紙、12章2-4節)

 これは、パウロという伝道者(使徒パウロと呼ばれています)がコリントと言うところにある教会に宛てて書いた手紙の一部です。ここで、「わたし」も「キリストにあるひとりの人」も「この人」もみな、パウロ自身です。かれもまた、自分のことを「ひとりの人」と、第三者のごとくにして書いているのです。

 が、ともあれ、ここでは「第三の天」がパラダイスとなっています。

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 聖書では、宇宙には「諸天」があるという思想になっています(ネヘミア記、9章6節参照)。そして「諸天の天」という言葉もある。これが天国です。すると「第三の天」というのは宇宙の中のある層、ないしは、空間ということになります。そして、これがパラダイスだという。

 だったら、パラダイスは我々から見たら宇宙の上方にある、ということになるでしょう。

 そうです。この宇宙の中のどこかに、パラダイスという空間がある、信仰の勝利者がいのちの木から取って食べられる(そうして永遠のいのちを得ることのできる)空間がある、というのが聖書の思想だったのですね。

 旧約聖書に出てくる預言者たちは、どうも、そこにいることになるらしい。これが解読です。
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Vol.36『私と共にパラダイスに・・・(3章)』

2005年01月07日 | ヨハネ伝解読
 旧約時代にその信仰を認められた人、すなわち、預言者たちの霊はどこにいることになるか。それについて、われわれは聖書をどういう風に解読したらいいでしょうか?

 再び、「KINGDOM原理からの聖書解読」のカテゴリーのなかの『聖書の空間理念』の項にある図をクリックしてみて下さい。本でご覧になりたい方は、拙著『誰もが聖書を読むために』(新潮選書)あるいは『聖書のことがよくわかる本』(中経出版)を参照してください。

 そこには、聖書の持つ、空間理念が図示してあります。無限の空間世界の中に、天国という被造空間があります。その一角に小さな暗闇の空間、宇宙があります。さらにその中に、我々の住む地球があります。

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 前回のイエスの言葉によれば、預言者たちの霊も天国に行っていないことになりますね。「(私の他に)誰も天に昇ったものは、いない」というのですから。

 ならば、残るは、宇宙しかないでしょう。彼らは、宇宙のどこかにいることになります。ではその中のどこになるか。そのことに関連する聖句が、ルカ伝にあります。

 「あなたは、今日私と一緒にパラダイスにいるでしょう」(ルカによる福音書、23章43節)

 これは、十字架につけられて死ぬ直前にイエスの口から出た言葉です。そうルカは記録しています。このときイエスの左右には、他の犯罪人が一人づつ、やはり十字架につるされています。その一人がイエスにこう言います。「イエス様、あなたが天国の権威を持って王としてこの世にこられるときには、この私を思いだしてください」(ルカによる福音書、42節)と。

 これに対して、イエスは上記の「あなたはパラダイスに」という言葉で応じているのです。

 具体的には、どういっているのでしょうか。イエスは、今、十字架で死んでいこうとしています。その日に、自分がパラダイスというところに行くといっている。そして、彼を信じ頼った犯罪人を、共に連れて行く、と約束しているのです。

 では、パラダイスとは、一体どういうところでしょうか?
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