サマリアの女は自堕落女か? の続きです。
この女に関して「5人の夫を持ってきた」に加えてもう一つ、自堕落という印象を与えるせりふが記されていますね。
「今一緒に住んでいる男は夫ではない」
というイエスの言葉がそれであります。今流に言えば、これは同棲ではないか、ということになる。このように追い打ちをかけられると、もう、弁護の余地はないように見えます。
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だが、これも我々が現代日本の家族構成を前提に考えているからかもしれないのです。古代のユダヤ社会(そして、ギリシャ社会、ローマ社会でも)では、家族というのはもっと大きな集団でした。そこには妻、子などの血縁関係者だけでなく、奴隷もたくさん含まれていました。それらを一家の主人が強い権限を持って統率している、これが家族です。
なお、この場合の奴隷というのも、日本語から通常描かれるイメージとは、かけ離れています。日本語で奴隷といえば、牛馬のようにむち打たれて働かされる存在というイメージですよね。だが、当時はそうではない。たとえば、家族の金銭関係の管理を任されている執事のような知的な仕事に携わる存在も、身分は奴隷であり得ました。
聖書に出てくる「奴隷」という言葉は、「自由人」に対する、反対概念です。そして、この場合自由人というのは、自分の属する集団の全体に関する情報を持っているもの、という意味です。そういう情報を与えられていない人は、専門家であっても奴隷でありうるのです。
家族の財務管理を担当している執事も、奴隷である場合が多かった。それが家族全体でどういう位置にあるかの情報を与えられておらず、ただお金を運営するエキスパートであるならば、すなわち奴隷でありえたのです。日本語ではむしろ「しもべ、下僕」という感じですね。
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そういう状況ですから、6番目の弟が、その家族の中にいたのかもしれません。ヨハネがイエスの言葉として「共に住んでいる」と記しているのは、それだけのことである可能性も十二分にあるのです。
でも、それが「夫でない」というのはなぜか。それもあり得ます。彼は、律法に従って、将来、彼女の夫になることに決まっています。だが、次の結婚を兄の妻だった女性とする前に、一定の期間をおいていたのかもしれません。
そういう可能性も十分です。現代日本だって、再婚登録をする場合、離婚後6ヶ月以上は待たねばならないことに法律で定められていますね。
このように、彼女が今流に言う「同棲生活」をしているのではない確率も、十分にありえます。兄の嫁だった女も家族です。その弟と元兄嫁が、同じ家族として「共に住んでいる」だけという可能性を否定することは決してできません。