前回の続きです。聖句も同じです。
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=聖句=
「過ぎ越の祭りの前だった。イエスはこの世を離れ父のみもとに行く時が来ていることを悟った。彼は自分のものとなった、この世の人々を常に愛された。彼らを最後まで愛し通された」(13章1節)
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イエスの仕事によって救われる人間は、人類の一部にすぎない。結果的にこれまでの歴史ではそうなっています。
どうしてそうなってしまうのか? イエスはどうして、全員を「手放しで」救うようにしていかなかったのか。究極の答えは創主のみが知るところでしょう。
だが、一部しか救われなくなっている理由は春平太にもわかります。それは人間に伝道させているからではないでしょうか。
もしも・・・、もしも・・・、復活したイエスがこの地上にず~と踏みとどまってくれていたらどうでしょう。説教を続け奇跡を見せ続けていてくれたならばどうでしょうか。事態は大きく違うことになったはずです。
もしそうなら、何世紀たっても死なないで、復活したイエスはこの地上で教え続けていることになります。そうしたら人間には「人の姿はとっているけれども、この方は人間ではない、創主の子だ」と信じるのが容易になります。だって死なないんだもん。
ほとんど文句なく信じたでしょうね。そうすれば、今よりもっともっとたくさんの人が、教えを受け入れ、「救い」を受けたはずです。
でも、そういう風にはされませんでした。どうしてか? 聖書によればそうしないのが創主のやり方だ。そうとしかわかりません。
人類の救いについては、創主の計画はその程度のものということになる。こう言うとびっくりする信仰者の方が、我が国には多いです。春平太の著書に手紙で抗議してきた方もおられます。
「信仰が揺らいだ」という。「どうしてくれるんだ」と。怒ってこられました。このように「この程度のもの」といういい方は、ニッポンキリスト教の信仰者への衝撃が大きいのは承知しています。けれども論理としてそうなるから仕方ないですね。
ヨハネのこの13章の冒頭の聖句は、そういうことも示唆していると鹿嶋は見ます。イエスの教えを受け入れて、イエスのものになった人、これは愛した。「最後の最後まで愛し通した」とヨハネは言う。
では、イエスのものにならなかった人間は? イエスにとって? 創主にとって?・・・答えは・・・「どうでもいい」でした。
「えぇ~っ?」「本屋さんで買った聖書の解説書には、”神は愛なり”と聖書に書いてあると言ってるのに・・・」「ヨハネも同じこの福音書で、”一人も滅びないで・・・”と書いているのに」
「まさか!」ですよね。気分としては。
このあたり、詳しくはどうなっているのでしょうか。