鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.184『死の権を打ち破った空間』(13章)

2007年03月05日 | ヨハネ伝解読







 再び前回の続きです。聖句も同じです。

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=聖句=
「過ぎ越の祭りの前だった。イエスはこの世を離れ父のみもとに行く時が来ていることを悟った。彼は自分のものとなった、この世の人々を常に愛された。彼らを最後まで愛し通された」(13章1節)
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 若干繰り返しも含まれますが、ここは聖書の論理構造の理解に大きく関わってくるところです。そして、それは聖書解読のあり方にも直接関わってきます。

                    

<聖書「解読」とは>

 解読というのは、聖句を見て直感的に思いつくままにべらべらしゃべることではないのです。吉田拓郎の唄(「この指とまれ」)に~~

  ♪出まかせ言うな、愛を語るな・・・♪

というフレーズがありますが、それはまさにその場その場の「出まかせ」以上のものではない。そういうのは聖書解釈自由の神髄をわかってない人のやることです。

 解読とは聖書の構造の全体を視野に入れて、それと該当聖句を照合して整合性ある解釈を見出していく作業です。その「聖書全体の構造」観を得るために、ここはとても重要なところなのです。

                    


<イエスが造ったのは救いの「チャンス」>

 イエスが(一部の人間にではなく)、全人類に与えたものは、いわゆる「救い」ではありません。それを受ける「可能性」です。可能性は全人類に対して開かれた。聖書ではそうなっている。

 これだって、大変なもんですよ。十字架にかけられ、苦しめられ、罵倒され、死を味わうということをして、与えたんですからね。

 「創主は愛なり」というのは、そのことについて言っているのですね。聖書を読む者は、そこを取り違えてはいけません。

                    

<デレデレに「愛している」のではない>

 人類はその可能性を利用して、結果的に救いの資格を得る。だが結果については、創主は全人類には手放しで与えてはいないのです。「その資格までをも無条件に与える」ほどには、まあ、言ってみればデレデレの「甘い形で愛してはいない」んですね。それが創主の人間に対する愛の中身です。

 「愛、愛」とだけ叫んで門前祭りをしているニッポンキリスト教の皆様は、これでショックを受けるのですね。それは愛、愛と行ってるうちに、全部丸抱えで面倒見てくれる気持ちになってしまうからでしょうね。

 けれども聖書の論理はそうなってはいないのです。ならば信仰者たるもの、その計画を受けて毅然と対応するのがベストではないでしょうか。「救い」とはそういう実体のものであるとイメージして対応する。それが大切です。

                    

<死の権が及ばない空間を作る>

 イエスが十字架でもって、救いの可能性を開いたというのは、次のような全体構造観のなかで理解することも可能です。つまり~~

 ---そもそも、この世はサタンの支配する空間です。これは聖書論理の大前提です。だからイエスは悪魔を「世の君」というわけですね。君というのは、君主と言うことです。

 この君主は、「死の権」を持っています。人間(罪ある)の霊を、最終的に死に追いやる権利を持っています。そういう権がこの世という空間にあまねく及んでいた、というのが聖書の想定する「この世」観なのです。

 サタンはイエスも、十字架で殺します。ユダヤ人の意識をそういう風に方向付けて殺します。イエスの身体も、一時的には死の権にやられるのです。

 ところが、父なる創造主はイエスを生かします。イエスは罪なき存在です。全宇宙の法則に沿う存在です。つまり正しい、義なる存在です。

 サタンの死の権の支配は、「罪あるもの」に対してだけくまなく及ぶものなのです。だから、法則上、「罪無き」イエスには及びません。それで、父なる創造主は法則通りに、イエスを生かします。復活させます。

                    

 それすなわち、イエスがサタンの死の権を打ち破ったことになる。こうして、死の権の支配するこの世の世界に、それに打ち勝った空間が出来た。そこにはイエスの名が冠せられている。

 このイエスの名の論理はここで詳述できませんが、結論的にはそういうことになっています。すると、イエスの名のあるポイントには、サタンの死の権が及ばない空間が出来ることになります。罪あるものも、そこに入ってしまえば霊の死から免れるということになるのです。
 
 ---これがイエスの十字架死がもたらす、救いの論理の一つのイメージです。これでいきますと、救われるにはイエスの名のある領域に信頼して入ることが必要ということになります。だけど、それを真理と思わない人は、そんなところはおかしくて入る気になれないわけです。

                    

 そうすると、その人は、悪魔の論理、死の権のなかで生き続けることになります。イエスの名の外側は、悪魔の支配権のもとにある空間、というのが聖書の論理ですから。

 その人は、自ら与えられた自由意志で、それを選んだわけです。イエスとしては、法則上そういう選択をした人はどうすることも出来ないのです。死の権の及ばない世界をつくったのだけれど、入ってこないんでは対処しようがないのです。

 そして、最後には、悪魔の支配する空間は、火で焼かれて消滅するということにい聖書の論理ではなっています(最後の審判)。悪魔の空間で生きてきた人は、悪魔と共に、まとめて火の池に投げ入れられる。それは、聖書では法則通りと言うことになります。

 イエスは、そのことを教え、弟子たちにそれを伝えさせました。その際どういうわけか、自分では伝道し続けなかったのですね。その状態で歴史が展開しますから、イエスの名のある空間に入ってこない人々もたくさん出るんですね。

 これに関しては、イエスも法則上どうすることも出来ないのです。だからもう・・・、「どうでもいい」ということにしかならないわけです。 

                    

コメント
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