鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.193『天の論理、世の論理』(13章)

2007年03月24日 | ヨハネ伝解読



 次に進みます。
 本日の聖句はこれです。

                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
  「諸君の全員にそう(幸せになれる)と言っているのではありません。私は、自分が選んだ人間を知っているのです。だが『私のパンを食べている者が、私に向かってそのかかとを上げた』という聖句(旧訳聖書の)は実現しなければならないのです」(13章17~8節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


 「しかし、諸君の全員について、仕合わせになるといっているのではない・・・」とイエスは続いていいます(18節)。

  何のことでしょうか? イエスのいう、この幸福、究極の幸福に無関係な人間が一人いるということです。

 それはイスカリオテのユダでした。どうしてわかるか? 透視か? そんなもの必要ありません。ユダはすでに、イエスの教えについて行かれなくなっているのです。「こんなんじゃぁ、とてもやっとられない・・・」そういう心理状態になっています。


 それでもって、依然として、イエスの集団に加わっているのです。(こういう状況って我々の社会にもありますよ)

  ユダはイエスに最も近接した12弟子の一人でした。なのに師匠の考えの外に出てしまっている。その状況はいくつか散見されます。


                    


 たとえば前の12章で、ラザロの姉妹、マリアが高価な香油をイエスの足に塗りましたね(12章3節)。

 それについて、ユダはクレームをつけています。「売れば貧しい人に施し出来るのに・・・」と苦情を言う。イエスがそうさせているにもかかわらず、非難する。

  ~~これはユダの意識がイエスの世界、イエスワールドの中に、もはや留まっていないということを明らかに示しているのです。その類のことは、ヨハネが福音書に直接そうだと明記していない場面においても、散見されます。


                    

  余談ですけれど、こういうことは、イエスでなくとも親分というのはわかるものであります。「この男は、もう、私の理念の外に出てしまっているなあ」ということが。雰囲気で簡単にわかる。

  春平太にも経験があるんですよ。若いころ、血気盛んで、若手学者の一群を率いていたことがあります。学問上の軍団です。集団の力で研究成果を上げ、売り出していました。その過程でチームから裏切るものが出た。

  面白いことに、一度そういう経験をすると、今度は裏切られる前にわかるようになるのですね。

 「ああ、この人はいずれ裏切るなあ・・・」と。仲間に入ってきたときからわかる。でも排除しない。そして、懐に抱いている。と、やっぱり裏切っていきます。

  ましてや、イエスです。この程度のことは、もうず~と前からお見通しです。しかし、そこからが春平太のような凡人とは違います。それを、この男は「自分を殺そうとしている集団を、自分の所に案内してくるところまでやる」というところまで見通す~~これがイエスです。


                    


   どうしてそこまで? ここでは聖書の鉄則が想起されねばなりません。イエスの教えは「天の側の論理」なのです。対して、ユダが抱くようになっている思想は「世の論理」です。そして、天と世とは絶対的に敵対関係にあることと、「世の君主」は悪魔である、というのは聖書の鉄則です。

(これを知らない信仰者が日本には多いんですけどね)

   世の君主は、天の論理を広める者については、殺意を持つところまでいくのです。イエスはその法則を知っています。(ヨハネも、少なくともこの福音書を書く時点では、それを悟っています)だから、ユダの行為は、自分に対する「たんなる反抗では終わらない」ことを知っているのです。

   だから、続いてこういいます。「『わたしのパンを食べている者が、私に向かってそのかかとをあげた』という(旧約)聖書の預言がある(詩編、41章9節)。預言は成就することになっているからね(もう、昔からこうなることは決まっているんだからね)」と(18節)。

 すごい話ですね。


                    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする