本日の聖句はこれです。
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=聖句=
「私がこれを、前もっていうのは、諸君らが私(の言葉)を信じるようになるためです」(13章19節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この言葉の持つ、現実的な意味を考えます。
前回~~
「しかし、諸君の全員について、仕合わせになるといっているのではない・・・」というイエスの言葉を示しました(18節)。これは具体的には、ユダはイエスの言葉に従わないから、幸せになれない、ということでした。
ユダは言葉に従わないだけでなく、裏切ってイエスを殺そうとする集団を先導することになります。だがイエスは、それはあらかじめ決まっていることだ、と言いました。
「『わたしのパンを食べている者が、私に向かってそのかかとをあげた』という(旧約)聖書の預言がある(詩編、41章9節)。預言は成就することになっているからね(もう、昔からこうなることは決まっているんだからね)」(18節)。
~~といったのですよね。
さてここで一寸考えましょう。ユダが裏切ることは、旧約の聖書預言でもってもう決まっているのならば、イエスはなんでわざわざそれを口に出して言う必要があるのでしょうか。決まっているのなら、わざわざ言うこともないではないか。言わない方が、奥ゆかしいではないか。
~~本日の聖句は、そうした疑問が出たらイエスはこう答える、ということを示す言葉です。つまり、決まっていることをあらかじめいうのは、弟子たちが自分の言葉を信頼するためだ、とイエスは言っています。
<言葉がそのまま内に留まることが鍵>
イエスは間もなく、弟子に伝道をまかせて、父なる創主の元に返ろうとしています。そうしたイエスにとって、弟子たちのイエスへの信頼度を深いものにすることは、実際上とても重要なことでした。
弟子たちはイエスのような創主の子ではありません。生身の人間です。そう簡単に、いなくなってしまった師匠を深く信頼することは出来そうにないのです。
では信頼度が浅いとどうなるか。弟子たちはイエスの言葉そのものではなく、"自分の”信念を交えて人々に伝道するようになるでしょう。現実の話、そうなっていくのです。
それではまずい。“イエスの”言葉が“そのまま”弟子たちの信念になってくれなければ困ります。これは容易なことではありませんが、イエスの口から出た言葉に、弟子たちが深い信頼を抱くようになった時にはそれが可能になるのです。
イエスは次の20節で、
「私がつかわす者を受け入れる者は、私を受け入れる者です。」(13章20節)
~~と言っています。ここは注意が必要です。この聖句で「つかわす者」とは“イエスの言葉がそのまま自分の信念になった”弟子たちのことです。そうなっていないのは、「つかわす者」にはならないのです。
で、次の「受け入れる者」は、“イエスの言葉がそのまま自分の信念になった、そういう”弟子たちが伝道する言葉を受け入れる者です。
こうなったときにだけ、弟子たちは、創造主の言葉、「天の論理」の言葉を人々に伝道したことになります。どうしてか?
イエスは、自分が弟子たちに語る教えは「父なる創主の教えである」と言っています(7章16節)。
後の14章になると、イエスはこれを更に具体的に~~
「わたしが諸君に話している言葉は、自分から話しているのではない。父が私のうちにおられて、みわざをなさっているのである」(14章10節)
~~と言っています。
ですから~~
「父なる創主の語る言葉」=「イエスの語る言葉」
~~という等式は成り立っています。そこで後は、
「イエスの語る言葉」= 「弟子が 宣べ伝える言葉」
~~となれば、
「父なる創主の語る言葉」=「イエスの語る言葉」= 「弟子が 宣べ伝える言葉」
~~という等式が成り立ちます。それすなわち、弟子たちが「父なる創造主の教え(言葉)」「天の論理」そのものを伝道することになるのです。
伝えられた多くの者の中には、また、それを「そのまま受け入れて 宣べ伝える者」が出るでしょう。かくして純正なキリスト教、天の論理、創造主の言葉が普及するラインがこの地上に出現するのです。
ところが、最初の伝道者である、弟子たちが「自分の人間的な信念」を交えて伝えたらどうなるか。もうキリスト教は、通俗的な世的な教えの宗教となっていくしかなくなります。
そこでイエスはこれから起きることを前もって語ります。そしてその通りのことが現実に起きます。すると弟子たちは「ああ、あの方の口から出た言葉の通りに現実はなるんだ。あの方の言葉は真理なんだ・・」と確信を深めます。
逆に、前もって言っておかなかったらどうなるでしょうか。説教からしるし(奇跡)、さらには生活費(献金収入)まで、あらかたイエスに依存して旅暮らしをしてきた弟子たちです。
あるとき急転直下、イエスが殺されたら仰天するでしょう。「こんなに簡単に殺されてしまわれるとは・・」「これから俺たちどうしたらいいんだ・・・」と、動転しイエスの力と約束(言葉)に幾分なりとも不信を抱くでしょう。
そういうトラウマ(傷跡)が心に残りますと、後に命令通り伝道するにしても「私がその分(一時的な不信が作る心のトラウマの分)がんばります・・・」と、小林幸子が唄う歌謡曲「雪椿」の歌詞みたいな気持になるでしょう。そうやって自分の頭を働かせて自分の信念を交えて語ることになるでしょう。
それでは困るのです。キリスト教は通俗的で世的な宗教になってしまうのです。
だからイエスは、「前もって言っておくよ。こうなるのだよ。だから動転したらダメだよ。私への信頼を(たとえ一時的にでも)失ったらいかんよ・・・」と言っておくのです。
すごいなぁ、すごいなぁ・・・。間もなくすさまじい苦痛を肉体に受けるのがわかっている状態でここまで弟子たちのケアをする。これだけでもとても人間わざには思えません。
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=聖句=
「私がこれを、前もっていうのは、諸君らが私(の言葉)を信じるようになるためです」(13章19節)
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この言葉の持つ、現実的な意味を考えます。
前回~~
「しかし、諸君の全員について、仕合わせになるといっているのではない・・・」というイエスの言葉を示しました(18節)。これは具体的には、ユダはイエスの言葉に従わないから、幸せになれない、ということでした。
ユダは言葉に従わないだけでなく、裏切ってイエスを殺そうとする集団を先導することになります。だがイエスは、それはあらかじめ決まっていることだ、と言いました。
「『わたしのパンを食べている者が、私に向かってそのかかとをあげた』という(旧約)聖書の預言がある(詩編、41章9節)。預言は成就することになっているからね(もう、昔からこうなることは決まっているんだからね)」(18節)。
~~といったのですよね。
さてここで一寸考えましょう。ユダが裏切ることは、旧約の聖書預言でもってもう決まっているのならば、イエスはなんでわざわざそれを口に出して言う必要があるのでしょうか。決まっているのなら、わざわざ言うこともないではないか。言わない方が、奥ゆかしいではないか。
~~本日の聖句は、そうした疑問が出たらイエスはこう答える、ということを示す言葉です。つまり、決まっていることをあらかじめいうのは、弟子たちが自分の言葉を信頼するためだ、とイエスは言っています。
<言葉がそのまま内に留まることが鍵>
イエスは間もなく、弟子に伝道をまかせて、父なる創主の元に返ろうとしています。そうしたイエスにとって、弟子たちのイエスへの信頼度を深いものにすることは、実際上とても重要なことでした。
弟子たちはイエスのような創主の子ではありません。生身の人間です。そう簡単に、いなくなってしまった師匠を深く信頼することは出来そうにないのです。
では信頼度が浅いとどうなるか。弟子たちはイエスの言葉そのものではなく、"自分の”信念を交えて人々に伝道するようになるでしょう。現実の話、そうなっていくのです。
それではまずい。“イエスの”言葉が“そのまま”弟子たちの信念になってくれなければ困ります。これは容易なことではありませんが、イエスの口から出た言葉に、弟子たちが深い信頼を抱くようになった時にはそれが可能になるのです。
イエスは次の20節で、
「私がつかわす者を受け入れる者は、私を受け入れる者です。」(13章20節)
~~と言っています。ここは注意が必要です。この聖句で「つかわす者」とは“イエスの言葉がそのまま自分の信念になった”弟子たちのことです。そうなっていないのは、「つかわす者」にはならないのです。
で、次の「受け入れる者」は、“イエスの言葉がそのまま自分の信念になった、そういう”弟子たちが伝道する言葉を受け入れる者です。
こうなったときにだけ、弟子たちは、創造主の言葉、「天の論理」の言葉を人々に伝道したことになります。どうしてか?
イエスは、自分が弟子たちに語る教えは「父なる創主の教えである」と言っています(7章16節)。
後の14章になると、イエスはこれを更に具体的に~~
「わたしが諸君に話している言葉は、自分から話しているのではない。父が私のうちにおられて、みわざをなさっているのである」(14章10節)
~~と言っています。
ですから~~
「父なる創主の語る言葉」=「イエスの語る言葉」
~~という等式は成り立っています。そこで後は、
「イエスの語る言葉」= 「弟子が 宣べ伝える言葉」
~~となれば、
「父なる創主の語る言葉」=「イエスの語る言葉」= 「弟子が 宣べ伝える言葉」
~~という等式が成り立ちます。それすなわち、弟子たちが「父なる創造主の教え(言葉)」「天の論理」そのものを伝道することになるのです。
伝えられた多くの者の中には、また、それを「そのまま受け入れて 宣べ伝える者」が出るでしょう。かくして純正なキリスト教、天の論理、創造主の言葉が普及するラインがこの地上に出現するのです。
ところが、最初の伝道者である、弟子たちが「自分の人間的な信念」を交えて伝えたらどうなるか。もうキリスト教は、通俗的な世的な教えの宗教となっていくしかなくなります。
そこでイエスはこれから起きることを前もって語ります。そしてその通りのことが現実に起きます。すると弟子たちは「ああ、あの方の口から出た言葉の通りに現実はなるんだ。あの方の言葉は真理なんだ・・」と確信を深めます。
逆に、前もって言っておかなかったらどうなるでしょうか。説教からしるし(奇跡)、さらには生活費(献金収入)まで、あらかたイエスに依存して旅暮らしをしてきた弟子たちです。
あるとき急転直下、イエスが殺されたら仰天するでしょう。「こんなに簡単に殺されてしまわれるとは・・」「これから俺たちどうしたらいいんだ・・・」と、動転しイエスの力と約束(言葉)に幾分なりとも不信を抱くでしょう。
そういうトラウマ(傷跡)が心に残りますと、後に命令通り伝道するにしても「私がその分(一時的な不信が作る心のトラウマの分)がんばります・・・」と、小林幸子が唄う歌謡曲「雪椿」の歌詞みたいな気持になるでしょう。そうやって自分の頭を働かせて自分の信念を交えて語ることになるでしょう。
それでは困るのです。キリスト教は通俗的で世的な宗教になってしまうのです。
だからイエスは、「前もって言っておくよ。こうなるのだよ。だから動転したらダメだよ。私への信頼を(たとえ一時的にでも)失ったらいかんよ・・・」と言っておくのです。
すごいなぁ、すごいなぁ・・・。間もなくすさまじい苦痛を肉体に受けるのがわかっている状態でここまで弟子たちのケアをする。これだけでもとても人間わざには思えません。