~~最後の晩餐の時、イエスが弟子の足を洗った真意を考えるのに、もう一つの準備作業をします。この世における組織編成の原理を考察しておきます。真意を探るのに、その知識は必要なのです。
聖句は前回と同じです。
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=聖句=
「主であり先生である私が諸君の足を洗いました。だからこれからは諸君も互いに足を洗い合わねばなりません」(13章14節)
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弟子たちが大教団の大幹部になっても、「教えられるものの足を洗うようにして、奉仕しなさい」というのがイエスの手本の主旨です。イエスはこれを「目に見えるようにやってみて示し」さらにその理由説明を繰り返します。
どうしてか?
人間たちにはそれを守るのはとてもむずかしいことだからでしょう。
それはこの世で運営される人間集団、組織集団について考えるとわかってきます。組織ですから、ある程度は一体性を持って動かなければなりません。
相互に連携して動かなければならない。連携が崩れたら、みんな各々勝手に動くことになる。そうなったら、同じ人間集団でも、ただの群衆になります。
東京渋谷駅前のハチ公の銅像のあるところには、たくさんの人がたむろしています。けれども、彼らの動きには何の連携もない。ただの群衆です。そういう風に、一体性がなければ群衆になってしまいます。
<権限を委譲する>
人間は組織を作るに際して通常、集団が人の身体の各器官のようになることをめざして、編成します。そうして一体性を持って動けるようにするのです。国家機関も会社もそうですよね。
会社などのこの世の組織では、誰か一人が頂点に立って最終的な運営の決定権を持っているようにしています。通常、その人は社長です。彼は人間の頭脳に相当します。
社長はそのうえで、その権限の一部を他者に「委譲」していきます。
一人の人間には統率できる範囲の限界があるのです。これを経営学ではスパン・オブ・コントロール(span of control:統率の限界)と言います。組織が大きくなるとトップは権限の委譲をして運営していかざるを得なくなるのは、それがあるからです。
こうして、部長、課長、係長、職長といった管理職が出来ていきます。こうしたスパン・オブ・コントロールの産物は、人間の身体では神経系統に相当するとみていいでしょう。
もちろん彼らも一定の決定権を委譲されています。けれども、それは委譲であって、委譲されたことがらの最終的な権限はやはり社長にある。彼らの本質的な役割は、やはり社長からの情報を部下に伝達し、彼らをコントロールするところにあります。
<中間管理職排除の動向>
---余談の余談になります。中間管理職というのは本来ですから、会社や国家の組織で正しく速やかな意思伝達をするための装置である面が大きいです。
ところが最近、コンピュータによる情報通信網が発展しました。社内電子メールやSNSによって、組織成員の間の相互意思伝達が飛躍的に上昇しました。これによって意思伝達上の障害が大きく取り除かれるようになりました。
そうすると、従来の中間管理職の必要性が低下していきます。かくして部長、課長、係長と言った職位が排除され易くなっていく。
これがいわゆる部課係長のリストラというやつです。技術革新というのは、こういう風に、経済、経営の様々な分野に変化をもたらすんですね。長いこと上司に仕えてきてやっと部長になれた、課長になれたと思ったら、リストラされたという例が今日本ではたくさんあります。
悲劇で同情すべき点も多いですけれども、こういう動向は全く予測できないというものではないです。先を見越して、新しい身の振り方、新しい能力習得に動けば、それなりに新世界が開けます。技術情報、知識は、常に収集しているべきでしょう。そうすれば泣きを見る確率は低下いたします。
<管理階層組織が一番容易>
---話を戻しましょう。とにかく、世の組織は、トップに最終的な権限があることにして、下部にその一部を委譲して、それでもって集団の一体性を保つようになっています。会社だけでなく、政府も地方自治体も学校も病院も同じであります。
世では通常そういう風に組織が編成される。それが一番容易だからです。
~~それを確認して、イエスの教えに向かいましょう。
イエスはそういう組織編成を望まなかったのです。