
ここでちょっと稲盛思想と聖書との比較をしてみましょう。
<空間理念>
まず、空間理念から。
これは聖書の空間理念図をもう一度持ち出すのがいいでしょう。
図を参照してください。これまで何度も引用したものです。
(どうしてこうなるかは鹿嶋『誰もが聖書を読むために』(新潮選書)を参照してくださいね)
稲盛哲学と聖書には、共に地球と宇宙があります。
しかし、稲盛思想には図の「天の創造主王国」(略して、天国)がありません。

<天の創主王国>
聖書では、天国は創造主が真っ先に創った被造空間となっています。
そこは創造主が王として完全統治する創造主の王国です。
その住民は当面天使たちで、そこを十字架にて殺され復活し昇天したイエスが、父なる創造主(の名の)右の座にすわって統治しています。
聖書では宇宙は将来、火で焼かれて消滅します。
そして、新しい身体に復活した人間は、最後の審判を受けます。
創主の子イエスが救い主であることを受容した者は、この天国に永遠に入れられます。
受け入れなかった者は、永遠に火の湖に入れられます。
ですから、天の創主王国は人間の最終ゴールということになっています。
聖書ではですから、イエスは「まず天国に入れるようにしなさい。この世の幸福は二番目に求めなさい」との旨の教えをしています。

また、そこに入るには、イエスを通してでしか行かれませんので、イエスは「私が道である」というわけです。
また、そういうイエスが「人の子」として地上に来るとき、「天の創主王国が近づいた」とバプテスマのヨハネは預言するわけです。
これは天の創主王国が物理的に近くなったという意味ではなく、そこにはいる道(人の子・イエス)が地上に来るので、霊的に近くなった、と言っていることになります。

<人間の経験基盤思考の限界>
稲盛思想に天国が含まれないのは、この空間概念は人間の五感経験認識を基盤にした思考の外側にあるものだということを、示しているように思います。
稲盛さんは、物理科学、天文科学から心霊科学に到るまで勉強して空間理念を展開されます。
科学というのは、人間の五感経験認識を基盤とする認識手法です。これをベースにして思考を展開した場合、広大な空間はやはり宇宙まで、ということになるのではないでしょうか。

そうだとしたら、天の創主王国の理念は、経験認識基盤以外の所からしか形成できないことになるでしょう。それをわれわれ人間は、聖書の言葉から得ているわけです。福音には天国の理念は不可欠です。それ故「(福音)信仰は聞くことから始まる」という聖句は当を得てることになります。
受け入れられる、られないに関わらず、「理念を伝える」ということは伝道活動なんですね。
