
「「稲盛『哲学』と聖書の思想」第15回です。
稲盛さんが援用する仏教の、六大煩悩(ぼんのう)と六波羅蜜(ろくはらみつ)を紹介しました。
ところでこの六波羅蜜というのは、日本史に出てくる六波羅探題という言葉の源でしょうね。
仏教の言葉は、日本人の日常生活に沢山入っているのですね。
「縁があれば・・・」という場合の「縁」等はその代表でしょうが・・。
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さて六大煩悩のうち、始めの3つが三毒でしたね。
「トン・ジン・チ」がそれでした。

<「癡(チ)」はかなり解決されている>
少し先走っていいますと、三番目の「癡(チ:無常である世の中を『変わらない』と考え、
不平不満を鳴らす妄念)」は、稲盛さんの場合、かなり解決済みなところがあります。
というのは、稲盛さんはこの点では聖書に近い考え方を取り入れていますから。
つまり「人間は肉体と意識体とで出来ていて、意識体は永続する」と考えます。
そして「意識体の方が人間の本体」だと考えます。
これ聖書の思想そのままですよね。
シャカはどうかというと、人間の死後のことについては、ノーコメントですからね。
ともあれここは稲盛さんは聖書的な考えで行きますから、目に見える肉体だけで
人間の存在を考えることはありません。
シャカで行くよりも、はるかに無常ということに苛まれなくてすむようになっています。

<瞋(ジン)も対応できていそう>
二番目の「瞋(ジン:自分の勝手な振る舞いで怒るような浅ましい妄念)」も、稲盛さんにおいては,
あまり悩ましいものとはならないように鹿嶋には思えます。
氏の持って生まれた人柄が、思索的で穏やかなものだったように思うのです。
「怒り」への対策は持戒(戒めを心に保持する)でしたよね。
稲盛さんにおいては「怒ってはならない」という戒めを放念しないように努めれば、
なんとかなることだと思います。

<貧(トン)への対処が最大課題>
稲盛さんが、経営者として最も御しがたいと認識しておられるのは、
一番目の「貧(トン:何でも我がものにしようとする貧欲な妄念)」のようです。
この貧という煩悩と波羅蜜(智慧)との対応関係を「貧」と「布施」を取りあげて
もう少し具体的に考えていきましょう。
まずは、「肉体を保存しようという欲望は肥大本性をもつ」ということから。

<「欲望」は自然成長すれば「貧」に到る>
「貧(とん)」は煩悩の第一番目のもので、「何でも我がものにしようとする貧欲な心」でしたね。
稲盛さんは、これは「肉体を守ろうとする欲望」に発するものだと把握されます。
人間が与えられている肉体というものを維持するのに、
必要だとして与えられている心理だととらえるのです。
だが、この欲望は放置しておけば、自然に肥大化する性質のものだ、
と稲盛さんは考えられています。

もう少し具体的に言いますと~~
肉体を守るために与えられている欲望の代表は食欲ですよね。
これはまず、「今食べよう、今日食べよう」という意欲として出現します。
だがその欲望は今日食べると、明日も、明後日も食べられるように・・・、とどんどん展開し、
放置すればついには死ぬまで安心して食べられるようにしたい、と肥大していきます。
世の中、先のことになるほど不確実性が高くなります。
それでもなるべく確実に食べられるようにしておきたいとなりますと、
「できる限りの富を手中に収めておこう」ということになります。
このように食べたいという欲望は、放置すれば自然に
「なにもかも我がものにしたいという心」に成長していく可能性を持っているんですね。
この様に、肉体を守るための欲望は、本性的には肥大して貪欲(どんよく)に到るのだ、
と稲盛さんは認識するのです。
次回には、これをわれわれの経験的な認識と結びつけてみましょう。
