稲盛哲学では、他にも聖書と共通した思想をもっています。
次に~~
「人間のこの世での幸福実現方法」を比較してみようと思います。
<稲盛思想と聖書の共通点>
その一つは次の如くです。
~~両者とも、「創主は人間を幸福にしよう、しようと願っている」という思想です。
そして、創造主の思いに人間の言動が沿っていれば、人間は自然に幸福を得られる、と。
だが、人間には自由が与えられている。創主の願いに沿わない言動もできる。
そして、沿わないと不幸になる。幸福になるのは創主の思いに沿うことだ~~と。
このあたりは、両者重なっています。
そして稲盛さんは、「この自由の中で人間が、創主の思いに沿うように心をもっていくことが、精神を高めること」である、と考えます。
また、この「精神レベルを高める」のがこの世での人間の究極の人生目的である、としておられます。
<聖書特有の論理>
だが、聖書は更に、上記に付け加える如くに、次のような思想ももっています。
~~すなわち、宇宙には人間の幸福を妨げる存在がいる。これが悪魔とその配下で働く悪霊である、と。
また悪魔たちは、人間の思いが創主の願うところと外れるように、外れるように、と働く、と。
さらに、この世(宇宙)では、悪魔にはそうやって人間を不幸にする権限が一時的に与えられている~~ともなっています。
具体的には、人間が創主の思いに沿わない言動をしたとき(これが罪です)、そこにつけこんで不幸にする権限が与えられている、と。
では、そんな悪魔がどうして存在するのでしょうか。これは、前回①でのべた「天の創主王国が聖書ではあるとされている」ことに繋がっています。
悪魔は天の創主王国にいたときには、天使であった、という論理です。
そこで与えられていた職務は、創主の名を讃美することであった。
だが、その天使の長が、あるとき職務に反して、傘下の天使たちに自分を讃美させるようになった、と。
また、これをした結果、天使はサタン(悪魔)に、そして傘下の天使たちは「天の諸々の悪霊」に変質した。
すると、創造主は天の一角に暗闇(宇宙)をつくり、自らに従う天使たちに命じて、悪魔悪霊を暗闇に追い落とさせます。
そして、この宇宙の中の地球上に動植物、そして人間を創った。これが人間の置かれている環境状況であって、このなかで創造主の願いに沿うようになっていくのが幸福になる方法だ~~という論理になっています。
<哲学・科学からは展開しない>
悪魔・悪霊を含む上記の一連の論理もまた、哲学・科学からは展開する可能性の少ないものでしょう。
これらは哲学・科学の立場からすると奇想天外に映じてきます。
稲盛哲学にそれがないのは、自然なことのようにみえます。
では聖書は、どうやってそんなことを書けたかといいますと、そこでの記述は「創造主の啓示によるもの」としているからです。
創造主ならば、被造物が存在させられる始めから「すべてを見て知っていますから」悪魔や悪霊の話を事実として書くことが出来る道理になります。