鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.18 「布施」で「欲望」を治める

2007年09月23日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想








                    



「稲盛『哲学』と聖書の思想」第18回です。

「自然なままに放置すれば貧(トン)にまでいく」食欲という欲望を治めるための修行が、布施をすることだ、というのが仏教の教えでしたね。
稲盛さんはそのまま自らの智慧とし、それをかみ砕いて実践されています。


                    

布施とは、「人を助けてあげること」をしてなす修行でしたね。
人を助けるには、「我がもの」を他者に与えることもしなければなりません。
これを「修行」として繰り返すことによって、貪(とん:貧欲)の心を治めることが出来るようになる、と稲盛さんは考えるのです。

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 鹿嶋はこれに関連した質問を稲盛さんにしたことがありました。答えは概略次のようなものでした。

                    


<稲盛さんへの質問>

 鹿嶋がした質問はこういうものでした。

~~稲盛さんの自伝でこういう話を読みました。
28才で京セラを始め、まもなくして、社員に一定の寄付金を出させ、会社からも同額の金を付け加えて、それを福祉施設などにもっていった。以後これが続いた、と。

~~それをした動機は「社員の精神を活性化すること」にありましたか?


                    


稲盛さんは例のソフトで、若干とぼけたような表情で答えられました。

~~給料からお金を出させたのではありません。
創業の苦しい時を経て、ようやく社員にボーナスを払えるときが来た。

そのとき、社員にこう語りました。

~~「我々はボーナスが入ってうれしい。
だけど世の中には、盆正月にもボーナス収入が得られない貧しい人もいる。
このボーナスの中からいくらでもいいから出して、そういう人と喜びを共にしないか。他の人に我々の喜びを広げないか」と。

~~そうしたら、各々思い思いのお金を出しました。
その合計と同じ額を、会社からも出して、合わせて福祉施設に持って行きました。

~~以後、それが続くようになりましたが、これは、会社の外の人々ともこの喜びを分かち合おう、と願っただけです。
これによって社員の士気をどうしようとかは、全く考えませんでした。

自分が食べられて、さらに上手いものを食べたときの喜びは、そんなに深い喜びではありません。
その分他者に食べさせて、喜んでいるのを見る方が、人間の喜びはもっと深いです。
私はそれを、仏教の勉強をしていて学びました。

その喜びをみんなで味わおうぜ、という単純な動機でした。


                    


<波羅蜜の実践だった!>

なんとこれには仏教の「布施」という智慧の実践だったのですね!
稲盛さんはこの頃既に、仏教を勉強して「貧(とん)にいたろうとする欲望」を治める方法を心に抱いておられた。
その方法は「布施」を繰り返すことだという実践思想をすでにお持ちだった。

そこで社員へのこういう呼びかけになったのですね。
ここで稲盛さんの望んでいたのは、自分も含めた社員たちの「精神のレベルを高める」ことでした。

それに比べたら、経営学教科書に書いてある、社員の「士気を高める」とか「精神を活性化する」というのはなんと薄っぺらな観念なのでしょうか。



                    


コメント
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