
「稲盛『哲学』と聖書の思想」第14回です。
第11回に、「煩悩(ぼんのう)」という考え方が出ました。
これは、その煩悩を治める為の「修行の道」とセットにして理解しておくのがいいようです。
もちろん修行も仏教の思想です。
稲盛さんは、それを援用するのです。

修行の道は6つあって、仏教では六波羅蜜といっています。
波羅密というのは、智慧という意味だそうです。
六つの知恵ですね。
六つの波羅蜜は、前述した六つの煩悩に対応しています。
具体的には、その智慧(波羅蜜)を作り上げる修行をいっています。

<六波羅蜜>
六波羅蜜とは次の如しです~~
1.布施(ふせ)=他人を助けてあげる修行。
煩悩のなかの「貧(とん:何でも我がものにしようとする貧欲な妄念)」に対応しています。
2.持戒(じかい)=戒めを心に保持する修行。
煩悩の「瞋(じん:自分の勝手な振る舞いで怒るような浅ましい妄念)」に対応しています。
3.忍辱(にんにく)=無常な世の変化を堪え忍ぶ修行。
煩悩の「癡(ち:無常である世の中を「変わらない」と考え、不平不満を鳴らす妄念)に主に対応しています。
4.精進(しょうじん)=一生懸命働く修行。
煩悩のうちの「慢(まん:傲岸不遜な妄念)」に主に対応しています。
5。禅定(ぜんじょう)=座禅を組んで心を鎮める修行。
煩悩のうちの「疑(ぎ:シャカの説く真理を疑う妄念)」に主に対応しています。
6.智慧(ちえ)=宇宙の真理の悟りに到る修行。
煩悩のうちの「見(けん:物事を悪い方に、悪い方にと見ていく妄念)」に対応しています。

6番目の「智慧」は最後のゴールでしょうね。それ以前の5つはみな、このゴールに明確に向けられたものでしょうから。
智慧とは、そのゴールを直接目指した修行、と理解したらどうでしょうか。

稲盛さんは、智慧の悟りにまで到らなくても、死ぬまでに少しずつでも心が綺麗になっていくことに価値がある、と考えます。
例えば、「貧乏でも、病気でも心を鎮め、高めていくことは出来る」という。
貧乏だと普通心がすさむが、「貧乏でもいいではないか、三度三度の飯が何とか食べられるのだから」と思えば(知足:足を知ること)、人生観はいっぺんに変わる。生きる勇気が湧いてくる、といいます。
また、こうも言っておられます~~
恵まれた環境にありながら、(布施もしないで)自分の財産が減ることを何よりも恐れている人がいる。
そういう人生には値打ちも魅力もない。
本当の意味での人生の目的から遠のいて行くだけだ~~と断言しておられます。
