ニッポンキリスト教会の礼拝に参加する機会が多くなりました。
聖日に教会で賛美、祈りができるのはありがたいことです。
けれどもメッセージにはやはり引っかかるものを感じることが多い。
複雑ですが、いつか何かの形で生きると思っています。
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ヨハネ伝に入る前に、ニッポンキリスト教のもう一つの問題点を。
メッセージで、旧約聖書の聖句をテーマにする時にそれは発生します。
ニッポンではあまりによくあることですが、聖書全体への鳥瞰図がないままで、旧約を解説する。
そもそも、旧約聖書はユダヤ教の教典だったものです。
なのに、キリスト教では、これをイエスの教えを述べた新約聖書と組み合わせて
『聖書』としているのはなぜか。
この基本的なところの認識がない。
するともう、イエス信頼教であるキリスト教の説教にはならないんですね。
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イエスは「旧約聖書は私について述べたもの」といっている(ヨハネ伝、5章39節)。
これに従ってキリスト教会は、旧約聖書を自分たちの聖典として加えました。
だから、キリスト教では旧約はイエスを証言するという観点から読むもの、メッセージするものなのです。
それによって、聴衆は旧約を通して今週も、イエスに新しく触れることが出来る。
イエスに触れるから感動が来るのです。
なのに、ニッポンキリスト教はその理由を把握しないままで旧約をあれこれ論じようとします。
すると、メッセージのエッセンスは、必然的に単純な教訓で終わることになるんですね。
曰く、「ダビデは多くの戦いで奮闘しましたが、それは自分の力で出来ると思っていない。
神の御旨をしり、その力を信じてやっている。今日はそれを学びました」
「ソロモンは、自分の望みとしてエルサレムに神殿を建てたのではない。
主の御旨を知ってその助けを信じてやっている。私たちもそれを学びましょう」
要するに、神の御旨に沿ったことを、神の助けを信じて日々生きるのがいい、という。
これだけのことを言うために、40分近く、列王記に記されたエピソードを長々とたどります。
だけど、人生訓だったら、なにも聖書でなくったって、たくさんありますよ。
論語にも、菜根譚にも沢山あって、むしろ、人生訓だけだったらこちらの方が盛り沢山だ。
「自分の思惑ではなく、天の差配に従ってことをなすべき」などは、当然出てきます。
+++
ごく自然なことですが、会衆は疲れて無表情になったり、眠ったりします。
さすがに語り手ご自身も自覚することがある。
「私のメッセージは感動を与えないかもしれないが・・・」
という言葉が途中で出る時もありました。
でも、それだけでは終わらない。
「だけど、私は牧師按手を受けているから、自分の意志でなく神の意志に従ってやってるんだ」とドスを効かします。
それをソロモンに関連づけて語ったりするんだけど、出発点で間違うとそこまでいくんですね。
+++
キリスト教では旧約は、イエスをとりまく影を示す書物です。
言い換えると、キリスト教が与える究極のものは「いのち」であり、それを体現しているのがイエスであって、
そのいのちが現れる前に、その外枠を提供しておくのが旧約聖書です。
この論述を、イエスに関する論述と区別しないで、並列するように学ぶと、外枠ばかりが濃く補強されてしまって、
ホンモノに向かって前進しようとする妨げになってしまいます。
具体的には、聖霊を受けること、イエスの血(いのち)の力を受けること、
に向かって進めなくなってしまうのです。
+++
旧約は、イエスのディテールを構成する書物です。
小説作法に、リアリティはディテールに宿る、という格言があります。
登場人物やその舞台や時代背景を詳細に描くと、それが真実性を形成するという。
イエスのリアリティも同じです。
旧約がイエスの背景を詳細に示すことによって、イエスの真実味を人はより豊かに感じることが出来る。
この鳥瞰図の中で読む時に、旧約は力を発揮するのです。
+++
だが旧約の聖句をイエスと結びつけるには、聖霊の助けと相応の知恵がいります。
うまくイエスのディテールとして解読できない時もあるでしょう。
そのときには、新約だけをメッセージするのがいい。
キリスト教会は新約中心の教会ですから。
旧約は、新約の思想を別の面から裏付けて、確信を深めるための書物だからです。
+++
ニッポンキリスト教のメッセージを聞く時、時々首を回して聴衆の表情を眺めることもありました。
会衆は無表情でじ~として聞いています。
歓びがない、精神の躍動がない。
居眠りする人もいます。
そういう状態で礼拝行事を続けていく我慢強さには打たれます。
心から感心する。
日本人の中でそういう忍耐がとりわけ強いというか、忍耐好きな人が残ってパラパラ座っている。
これがニッポンキリスト教会の風景ですね。
そして何事にもプラスはあります。
これは、忍耐と従順さの訓練にはなるでしょう。
だが知性躍動にはマイナスを多大に与え続けている。
「真理が人を自由にする」という姿がない。
残念ですね。
でもやってる人は、これがキリスト教と信じて疑わない。
これで存続していきます。
だがそこにもなにか創造主の計画があるのかも知れません。
いつかどこかに向かって動き出すでしょう。
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さて、ヨハネ伝解読に入ります。
本日の聖句はこれです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「『私は父(創造主)から出て、世に来たんだ。そしてまた世を去って父のみもとに行くよ』
弟子たちは言った。
『ああ、いま先生はそのままをおっしゃっていて、喩えでは一つの語られてません。
だからいま私たちは、先生がいっさいのことをご存じで、だれも先生にお尋ねする必要がないことがわかりました。
これで、私たちは先生が創造主から来られたことを信じます。』
イエスは応えた。『諸君は今信じているのかい?』」
(16章28~31節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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弟子たちの語ることとイエスの言葉がすれ違っていることがわかるでしょうか?
「自分は父なる創主から出て世に来ている。で、また世を去って父ものとに変えるよ」
というイエスの言葉には、喩えは含まれていません。
弟子たちでなくても、それはわかるでしょう。
でも、ここからすれ違いが始まる。
弟子たちは、それを聞いて「もうこれでイエスを本格的に確信持って愛し信じることが出来たんだ」
と判断してしまいます。
しょうがないですけどね。
イエスが死んで、さらに、復活して天に帰るなどということは、観察体験しないことにはイメージ出来ません。
だから、それを体験した後に自分たちがどうなるかも、イメージ出来ない。
できないから、それと比較して自分たちの今を認識できない。
だからもう「今がそうだ」と勘違いするのもやむを得ないんですね。
だけどそんなことイエスは百も承知です。
だから「いや、諸君は間違ってる。今は信じてない」と決めつけることはしないんですね。
そうしないで、「諸君はいま信じてるの?」とだけいって、話を先に進める。
ここはそういうところです。
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聖日に教会で賛美、祈りができるのはありがたいことです。
けれどもメッセージにはやはり引っかかるものを感じることが多い。
複雑ですが、いつか何かの形で生きると思っています。
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ヨハネ伝に入る前に、ニッポンキリスト教のもう一つの問題点を。
メッセージで、旧約聖書の聖句をテーマにする時にそれは発生します。
ニッポンではあまりによくあることですが、聖書全体への鳥瞰図がないままで、旧約を解説する。
そもそも、旧約聖書はユダヤ教の教典だったものです。
なのに、キリスト教では、これをイエスの教えを述べた新約聖書と組み合わせて
『聖書』としているのはなぜか。
この基本的なところの認識がない。
するともう、イエス信頼教であるキリスト教の説教にはならないんですね。
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イエスは「旧約聖書は私について述べたもの」といっている(ヨハネ伝、5章39節)。
これに従ってキリスト教会は、旧約聖書を自分たちの聖典として加えました。
だから、キリスト教では旧約はイエスを証言するという観点から読むもの、メッセージするものなのです。
それによって、聴衆は旧約を通して今週も、イエスに新しく触れることが出来る。
イエスに触れるから感動が来るのです。
なのに、ニッポンキリスト教はその理由を把握しないままで旧約をあれこれ論じようとします。
すると、メッセージのエッセンスは、必然的に単純な教訓で終わることになるんですね。
曰く、「ダビデは多くの戦いで奮闘しましたが、それは自分の力で出来ると思っていない。
神の御旨をしり、その力を信じてやっている。今日はそれを学びました」
「ソロモンは、自分の望みとしてエルサレムに神殿を建てたのではない。
主の御旨を知ってその助けを信じてやっている。私たちもそれを学びましょう」
要するに、神の御旨に沿ったことを、神の助けを信じて日々生きるのがいい、という。
これだけのことを言うために、40分近く、列王記に記されたエピソードを長々とたどります。
だけど、人生訓だったら、なにも聖書でなくったって、たくさんありますよ。
論語にも、菜根譚にも沢山あって、むしろ、人生訓だけだったらこちらの方が盛り沢山だ。
「自分の思惑ではなく、天の差配に従ってことをなすべき」などは、当然出てきます。
+++
ごく自然なことですが、会衆は疲れて無表情になったり、眠ったりします。
さすがに語り手ご自身も自覚することがある。
「私のメッセージは感動を与えないかもしれないが・・・」
という言葉が途中で出る時もありました。
でも、それだけでは終わらない。
「だけど、私は牧師按手を受けているから、自分の意志でなく神の意志に従ってやってるんだ」とドスを効かします。
それをソロモンに関連づけて語ったりするんだけど、出発点で間違うとそこまでいくんですね。
+++
キリスト教では旧約は、イエスをとりまく影を示す書物です。
言い換えると、キリスト教が与える究極のものは「いのち」であり、それを体現しているのがイエスであって、
そのいのちが現れる前に、その外枠を提供しておくのが旧約聖書です。
この論述を、イエスに関する論述と区別しないで、並列するように学ぶと、外枠ばかりが濃く補強されてしまって、
ホンモノに向かって前進しようとする妨げになってしまいます。
具体的には、聖霊を受けること、イエスの血(いのち)の力を受けること、
に向かって進めなくなってしまうのです。
+++
旧約は、イエスのディテールを構成する書物です。
小説作法に、リアリティはディテールに宿る、という格言があります。
登場人物やその舞台や時代背景を詳細に描くと、それが真実性を形成するという。
イエスのリアリティも同じです。
旧約がイエスの背景を詳細に示すことによって、イエスの真実味を人はより豊かに感じることが出来る。
この鳥瞰図の中で読む時に、旧約は力を発揮するのです。
+++
だが旧約の聖句をイエスと結びつけるには、聖霊の助けと相応の知恵がいります。
うまくイエスのディテールとして解読できない時もあるでしょう。
そのときには、新約だけをメッセージするのがいい。
キリスト教会は新約中心の教会ですから。
旧約は、新約の思想を別の面から裏付けて、確信を深めるための書物だからです。
+++
ニッポンキリスト教のメッセージを聞く時、時々首を回して聴衆の表情を眺めることもありました。
会衆は無表情でじ~として聞いています。
歓びがない、精神の躍動がない。
居眠りする人もいます。
そういう状態で礼拝行事を続けていく我慢強さには打たれます。
心から感心する。
日本人の中でそういう忍耐がとりわけ強いというか、忍耐好きな人が残ってパラパラ座っている。
これがニッポンキリスト教会の風景ですね。
そして何事にもプラスはあります。
これは、忍耐と従順さの訓練にはなるでしょう。
だが知性躍動にはマイナスを多大に与え続けている。
「真理が人を自由にする」という姿がない。
残念ですね。
でもやってる人は、これがキリスト教と信じて疑わない。
これで存続していきます。
だがそこにもなにか創造主の計画があるのかも知れません。
いつかどこかに向かって動き出すでしょう。
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さて、ヨハネ伝解読に入ります。
本日の聖句はこれです。
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=聖句=
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弟子たちは言った。
『ああ、いま先生はそのままをおっしゃっていて、喩えでは一つの語られてません。
だからいま私たちは、先生がいっさいのことをご存じで、だれも先生にお尋ねする必要がないことがわかりました。
これで、私たちは先生が創造主から来られたことを信じます。』
イエスは応えた。『諸君は今信じているのかい?』」
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(16章28~31節)
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弟子たちの語ることとイエスの言葉がすれ違っていることがわかるでしょうか?
「自分は父なる創主から出て世に来ている。で、また世を去って父ものとに変えるよ」
というイエスの言葉には、喩えは含まれていません。
弟子たちでなくても、それはわかるでしょう。
でも、ここからすれ違いが始まる。
弟子たちは、それを聞いて「もうこれでイエスを本格的に確信持って愛し信じることが出来たんだ」
と判断してしまいます。
しょうがないですけどね。
イエスが死んで、さらに、復活して天に帰るなどということは、観察体験しないことにはイメージ出来ません。
だから、それを体験した後に自分たちがどうなるかも、イメージ出来ない。
できないから、それと比較して自分たちの今を認識できない。
だからもう「今がそうだ」と勘違いするのもやむを得ないんですね。
だけどそんなことイエスは百も承知です。
だから「いや、諸君は間違ってる。今は信じてない」と決めつけることはしないんですね。
そうしないで、「諸君はいま信じてるの?」とだけいって、話を先に進める。
ここはそういうところです。
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http://blog.goo.ne.jp/shunpeita1/e/e19b5e4d7cebca23de35b4b638e4aa5e