エルサレム広場での宣教は、参拝者観衆の心には留まらなかった。
だが、イエスはそのエルサレムで最後の宣教を弟子たちに焦点を定めて語った。
<最後の晩餐での教え>
それがなされるのが、いまやその名が知られている「最後の晩餐」においてである。
最後というのは、イエスがこの世で執り行う「過越祭り」での夕食としては「最後」ということだ。
イエスは翌日、十字架刑で殺されるのだ。
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そこで弟子たちに生前最後の教えをする。
特に、「ヨハネの福音書」の14章、15、16章にわたる三つの章では、イエスはほとんど一人でしゃべりまくっている。
これは鞄持ちとしてぴったりイエスに付き添い続けた、弟子ヨハネだけが記録できた圧巻の章だ。
<まず全体像を>
冒頭は、こう始まっている~
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「諸君は心を騒がせてはなりません。
創造主を信じ私を信じなさい。
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。
もしなかったら、諸君に言っておいたでしょう。
諸君のために、私は場所を備えにいくのです。
私が行って、諸君に場所を備えたら、また来て、
諸君を私のもとに迎えます。
わたしのいるところに、諸君をもおらせるためです。」
(ヨハネの福音書、14章1-4節)
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これは、これから弟子たちの身におきる事柄の全体像(十字架死 ⇒ 復活 ⇒ 追加の教え ⇒ 昇天 ⇒ 空中再臨 ⇒ 天国への受容)を述べたところだ。
(もちろんこの時点では弟子たちにはその具体的中身はわからない)
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まずイエスは「これから私は諸君の目の前からいなくなるが、心の平安を保ちなさい」という。
平安はこれからイエスが展開するドラマを認識するに必須の精神状態である。
これからイエスは、すべてイエスに頼り切ってついてきた弟子たちの前から、殺されて消え去る。
弟子たちにとって動転する事態だが、動転心理では感情が認識をさえぎる。
それではいけない。
<平安に知的認識を>
イエスはこれから弟子たちに、我が教えを伝道させたいと思っている。
それには、平安な心を保って、これからのイエスの教えを、冷静に、五感でもって知的に認識せねばならない。
感動が混じってもいけない。
とにかく平安が保たれ続けねばならない。
短期的にもこれからわたし(イエス)は殺されていなくなって、すぐに、よみがえって弟子たちの前に現れる。
現れたときにも、動転してはならない。
よろこぶのはいいが感動までいってはならない。
とにかく平安な心で、五感で、起きている事態を記憶にとどめるのだ。
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これから弟子たち自身が伝道するときにも、奇跡を伴わせるようにする。
その方法も教えていく。
だがそれも、平安な心の状態の時だけに現れる。
礼拝にも、平安が土台になければならない。
賛美の音楽も冷静、平安に歌わねばならない。
メロディは美しくてもそれに「酔って」はならない。
イエスの言う平安は、そういう深い意味を込めている。
だから、その後もここというときには、「平安あれ」とまず一声するのだ。
(続きます)
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