いろんな脇道に入り続けた。
本題に戻ろう。
問題は「イエスの同時代人でなくても、復活のイエスを視覚出来るか?」だった。
それに関する鹿嶋の考察を、まず、思いつくままに概論しよう。
<復活関連の聖句吟味放念>
まず、自覚すべきことがある。
「復活」にかんする聖句吟味はなぜか、放置されてきている。
神学的吟味がなされてきていない。
たとえば「ヤイロの娘やラザロの生き返り」と、イエスの復活との区別が
自覚的にされていない。
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彼らの生き返りは、肉体に霊が戻ったことによる。
イエスの「よみがえり」は、身体自体が変化している。
だが、それを明確に区別して示す言葉として「復活」は不十分だ。
そこで工夫が要る。
復活したイエスの身体を、まず、「復活の身体」と言おう。
その身体で現れたイエスを、「復活のイエス」とよぼう。
<「霊ではない」という>
弟子たちが締め切って潜んでいた部屋に「復活のイエス」は現れた。
弟子たちはおびえた。
イエスは「私は霊ではない」という。
「私は霊ではない。霊なら、手の釘あと、脇腹の刺し傷あとはないはずだ」
といって、自らの復活の身体を見せた。
だがそれはイエスの従来の身体ではないのだ。
ではそれをどう認識するか?
この認識論的考察がなされてこなかった。
<量子論思想の援用>
量子力学の思想・概念は、この作業を助けてくれる。
それは結論的に言うと、波動が肉体に凝集する(波束化・粒子化する)直前の「波動体」だと、
物理学的に比喩理解できる。
波動体だったから、マグダラのマリアも、イエスの墓の前で
イエスを墓守だと思っていた。
「マリア・・・」と呼ばれて、はじめて、「ラボーニ(先生:イエス)!」と認識できた。
<「霊ではない」という>
弟子たちも、締め切った部屋の中に現れたイエスを認知できなかった。
波動体だったからだ。
だから、イエスは、「私は霊ではない。霊なら、手の釘あと、脇腹の刺し傷あとはないはずだ」
といって、自らの復活の身体を見せた。
この身体「波動体」には、おそらく、「ゆらぎ」があっただろう。
それが故に、イエスの復活の身体は、霧がかかったような漠然さに覆われていただろう。
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波動体なら天に昇れる。
マリアから生まれて得た肉体として復活したのならば、重くて天に昇れないだろう。
復活の身体は、波動体であるが故に、天に昇って、永続できる。
また、この宇宙の中の空中に、再び現れることが出来る。
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ついに認知した弟子たちに、「私が(このように復活の身体でもう死ぬことなく)生きるので、諸君(弟子たち)も(復活の身体で)永続させます)」(Because I live, you shall live also)
~とイエスは言ったのだ。
弟子たちは、イエスの波動体を、肉眼で見て、自分たちの永続をも完全に確信できたのだ。
(続きます)
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