マグダラのマリア論のなかでは、かなりな余談になるが、
福音書の事実説明の正確度について、述べた機会に、聖句に関する全体像を述べておこう。
少し先走った論述だが、非常に重要なので、書いておく。
理由を詳論しないで概略だけを示しておく。
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聖句には、権威のランクがある。
取りあえず『黙示録』をのぞいて、順位を列挙して書くと~
① 創造神から直に出た言葉。
② イエスが創造神に向かった語った言葉
③ イエスが人間に向かって語った言葉
~となる。
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以上は創造神とその御子の口から出た言葉だ。
その下位に、④すなわち人間の言葉がある。
すなわち~
④ 人間が創造主とイエスの言葉につき論じた言葉。
つまり①②③につき述べた解釈である。
人間の解釈を「神学」という。
a. ヨハネの言葉は、すなわち「ヨハネ神学」だ。
b. ペテロ、パウロ他の言葉は、「ペテロ神学」「パウロ神学」だ。
<「聖書=神の言葉」は粗雑の極>
「聖書の言葉は神の言葉」は、聖句をほとんど読んでない人の言葉である。
話にならない。
聖書には、悪魔の言葉も記されているよ。
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ある程度読むと、パウロは、ユダヤ人の中でもとりわけ頭のいい人とわかる。
だが、所詮は人間の言葉だ。
「パウロの手紙集」も①、②、③の聖句について、解釈した、人間の言葉だ。
新約聖書には、それらの多くは「手紙」の形で述べられている。
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とりわけ牧師はまず、聖書の全体像を洞察するべき。
それが出来ないと、すべての聖句をベターッと読むことになる。
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その状態で、説教の殆どをパウロの手紙を提示して行う牧師さんが日本では非常に多い。
だが、人間の解釈を述べても、信徒の心はあまり揺さぶられない。
やはり、創造主と御子のことばの奥義を解読されて、人の心は大きく感動する。
端的に言えば、聖書の全体像を洞察できる前には、説教すべきではない。
(続きます)
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