バプテスマのヨハネ教団は、新しい教団です。著者ヨハネがこの教団の教祖の側近であったことは、この人の人柄を推察させてくれます。
当時、イスラエルには、伝統的な国家宗教、ユダヤ教がありました。これがあるのに著者ヨハネは、バプテスマのヨハネ教団に参加し、その側近にまでなっていました。これは何を意味するのでしょうか。
第一に、ヨハネは、強くかつ素直に真理を求める人だったことを推測させます。
当時、伝統的宗教であるユダヤ教が、形式化してしまっていたことは、福音書にも記されています。ヨハネは、それに満たされないものを深く感じていたのではないでしょうか。
そして、バプテスマのヨハネが新しい教えを始めると、いちはやくそれに参加してみた。側近というのは、通常、早期の参加者がなるものです。
第二に、形而上学的な教えを吸収すべき、知力や霊感にも特別に恵まれた人だったのではないでしょうか。そうでなければ、側近にはなれないわけです。
そういう人でありますからまた、師匠が、「あれこそまことの創主の子羊」というと、素直にイエスについていくことになるのでしょう。まだ、だれもイエスに付き従う人がいない段階でのことです。
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著者ヨハネは、師匠の言葉を聞いて即座にイエスのもとに移った後、付き添って教えを受けるようになりました。その点、ペテロ、ピリポ、ナサニエルといった弟子たちとは違います。彼らは、兄弟や友達が付き従っている状況のなかで、加わっているのです。
ヨハネは、知人の推薦が無くとも、誰も付き従ってない先生であっても、これと感じたら、即座に教えを請いに近づいていきました。そして、彼が教えを吸収する様は、やはり、弟子のなかで群を抜いてていたのでしょう。彼がヨハネ伝の中で、自分を「イエスが愛した弟子」といえたのはそれ故だったのでしょう。
ここで「愛した」というのは、「もっとも愛した」という意味です。単に愛した、という意味でしたら、他の弟子をイエスは愛していなかったことになります。そんなはずはない。イエスは、いつも、すべての弟子を愛しています。
そのなかで、ヨハネをもっとも愛したわけです。
教祖というものは、自分をもっともわかってくれる弟子が、もっとも可愛いものです。理念を教える教祖と弟子とは、理念でもって交流し結びつくのです。「ヨハネ伝」で、ヨハネはいつものように、それを、あからさまに言わなかった。控えめに、ぼかして示しているのです。
当時、イスラエルには、伝統的な国家宗教、ユダヤ教がありました。これがあるのに著者ヨハネは、バプテスマのヨハネ教団に参加し、その側近にまでなっていました。これは何を意味するのでしょうか。
第一に、ヨハネは、強くかつ素直に真理を求める人だったことを推測させます。
当時、伝統的宗教であるユダヤ教が、形式化してしまっていたことは、福音書にも記されています。ヨハネは、それに満たされないものを深く感じていたのではないでしょうか。
そして、バプテスマのヨハネが新しい教えを始めると、いちはやくそれに参加してみた。側近というのは、通常、早期の参加者がなるものです。
第二に、形而上学的な教えを吸収すべき、知力や霊感にも特別に恵まれた人だったのではないでしょうか。そうでなければ、側近にはなれないわけです。
そういう人でありますからまた、師匠が、「あれこそまことの創主の子羊」というと、素直にイエスについていくことになるのでしょう。まだ、だれもイエスに付き従う人がいない段階でのことです。
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著者ヨハネは、師匠の言葉を聞いて即座にイエスのもとに移った後、付き添って教えを受けるようになりました。その点、ペテロ、ピリポ、ナサニエルといった弟子たちとは違います。彼らは、兄弟や友達が付き従っている状況のなかで、加わっているのです。
ヨハネは、知人の推薦が無くとも、誰も付き従ってない先生であっても、これと感じたら、即座に教えを請いに近づいていきました。そして、彼が教えを吸収する様は、やはり、弟子のなかで群を抜いてていたのでしょう。彼がヨハネ伝の中で、自分を「イエスが愛した弟子」といえたのはそれ故だったのでしょう。
ここで「愛した」というのは、「もっとも愛した」という意味です。単に愛した、という意味でしたら、他の弟子をイエスは愛していなかったことになります。そんなはずはない。イエスは、いつも、すべての弟子を愛しています。
そのなかで、ヨハネをもっとも愛したわけです。
教祖というものは、自分をもっともわかってくれる弟子が、もっとも可愛いものです。理念を教える教祖と弟子とは、理念でもって交流し結びつくのです。「ヨハネ伝」で、ヨハネはいつものように、それを、あからさまに言わなかった。控えめに、ぼかして示しているのです。
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