では、前回に約束しましたように、鹿嶋の独断的全体像をのべますね。
従来のべてきた全体像との違いは、出発点で形成されますので、そこを重点的に述べます。
鹿嶋は以前、聖書の存在界の出発点では、「無限の過去から創造神がいて、その懐に、御子と聖霊がいる」と述べました。
これは神語(かみご)を考慮に入れない全体観でした。
<創造神、神語、御子、聖霊>
新全体像ではそこに、神語が入ります。
するとどうなるか?
まず、時間空間的無限者である創造神がいるのは、従来と同じです。
だが、今回は、そのふところに創造神の意志の現れである言葉、すなわち神語(かみご)が入ってきます。
そして、それを共有して、御子と聖霊がやはり、創造神の懐に存在する、という構図になります。
(これによって、父・子・聖霊の三位一体のイメージが一層充実します。三者は父の言葉を共有することによっても一体となりますから)
これが聖書の全体像の出発点にについての鹿嶋の新見解です。
<神語はヘブライ語で預言者に伝えられて旧約の聖句となる>
さて、以下、大筋は従来と似ています。
すなわち、この状態で被造物が造られます。
まず、天国(天の創造主王国)が造られ、そこに天使が造られます。
天国の中に宇宙が造られ、そこに人間が創られます。
そしてまず、神語の一定部分が、エホバ神によって、旧約時代の預言者(超霊感者)に伝えられます。
それは幻による啓示として伝えられる。
これを記録保存して、旧約聖書の聖句を人間は持つようになるというわけです。
<御子によって伝えられて新約の聖句となる>
次に、創造神の御子が、共有する神語(創造神の意志〕を体現してこの世に現れます。
そして、彼はその一定部分を人間にわかる言葉にして人間に示すのです。
それが記録され新約聖書に収納されます。
<神語は霊(波動体)という実体>
さてここで創造神の意志の現れである神語(かみご)についてもう少し考えます。
この語は、人間の話す言葉(「人間語」とでもしましょう・・・その特質はすぐ後に述べます)と本質的な差異を持っていると、鹿嶋は理解しています。
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まず、それは霊であり、波動を発する波動体です。
そういう明確な実体を持っている。
でありながら、言語(ことば)としての性格も持っている。
その性格のゆえに神語は、その実体を表現する信号をももち、それ故に翻訳文も作れるし複写(コピー)もできる(つまり伝達できる)できるのです。
<人間のことばは空気を振動させる「声」>
これを人間の言葉と比べてみるとその特質がいっそうハッキリしてきます。
人間の言葉の特質は、「ヨハネ伝」における「バプテスマのヨハネ」の次の言葉に現されています。
・・・・・・・・・・・
「わたしは・・・・(中略)・・・・荒野で叫んでいる声です」
(「ヨハネ伝」1章23節)
・・・・・・・・・・・
これはユダヤ教団から遣わされた祭司たちの「あなだはどなたですか?」という質問に対するヨハネの答えの一部です。
ここでヨハネは自分は「キリストでもなく、エリヤでもなく、預言者でもありません」と応じた後に、上記のセリフを言っています。
つまり、キリストやエリヤや他の預言者たちの言葉は「霊」という波動体を内に持つ実体なのだが、わたしヨハネはそうではない。
その言葉の本質は「声」であって、時の経過と共に消えていく音なのだ・・・と彼はいっています。
<神語はエネルギーをもった霊的実体>
他方、神語の実体は「超凝縮波動体」とでもいうべく、それ自体すさまじいエネルギーを秘めています。
これは、敵対する者を立ち退かせ、立ち向かえば粉砕します。
そして中立的な被造物は、自らの意志の通りに変化させてしまいます。
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人間も「創造神に似せて創られた被造物」ですから、その言葉もある程度のエネルギーを内包することが出来るかも知れません。
全身全霊を込めて念を入れると、多少のエネルギーを持った働きをするかも知れないのです。
日本語にも言霊(ことだま)という語があるくらいですからね。
たとえば~、
憎くてならない相手を想定した人形を作って、「死ね!、死ね!」と叫んで釘を打ち付けているシーンなどを、日本の時代劇で見た人もあるでしょう。
・・・そうすると、その憎き対象が病気になる、とかね。
その程度のことは実際にあるやもしれません。
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だが、神語の力はそんな生やさしいレベルではない。
イエスにこんな言葉があります。
・・・・・・・・・・・・・
私の言葉が諸君の内に留まるなら、諸君の願うことはすべてかなえられます」
(「ヨハネ伝」15章7節)
・・・・・・・・・・・・・
御子イエスの口から出る言葉は、「ヘブライ語に訳された神語」です。この言葉が弟子たち(人間)の内に留まるなら、その波動体は弟子たちの願うことをすべて現実化する」~という。
そういうレベルの力です。
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その視角からあらためて聖句をながめてみると、イエスが「言葉を発すると被造物がそのように変化する」という記録が沢山みえてきます。
(このあたりの詳細は、鹿嶋『誰もが聖書を読むために』新潮選書、を参照してください)
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先に創造神の言葉から見ておきましょう。
そもそも「創世記」の初めからそうだ。
「創造神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光が出来た」
(「創世記」1章3節)
~がそうでしょ。
「『大空よ。水の間にあれ。』と仰せられた。・・・(中略)・・・
するとそのようになった」
~もそうだ。以下同様な聖句が続きますが、イエスの言葉を見てみましょう。
「イエスは風を叱り、『静まれ、黙れ。』といわれた。すると、風はやんでおおなぎになった」
(「マルコ伝」4:39)
~イエスの言葉は、死人も生き返らせるのですよ。
あるやもめの婦人の息子が死んで、棺に入れて運ばれています。
「イエスはこの婦人(やもめ)をみて、深い同情を寄せられ、『若者よ、さあ、起きなさい』といわれた。すると、死人が起き上がってものを言い出した」
(「ルカ伝」7:35-15)
~もう、向かうところ敵なしです。
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で、イエスは、これらの言葉を思いつくままに口に出しているか。
「そうではない」と言うのですね。
・・・・・・・・・・・・
「私は父のもとで見たものを語っている」
(「ヨハネ伝」8:28)
・・・・・・・・・・・
でも、その「父のもとで見たもの」がなんだかわからないけど「とにかく見たものだよ・・・」であったらどうでしょうか。
やはり我々にはこの場面のイメージはハッキリしないでしょう。
ところが、この「父のもとで見たもの」が創造神の意志を現した神語(
かみご)だった、となったらどうでしょうか。
すべての創造がなさる前から存在していた神語です。
ならば、「それが不動の力を持って被造物を従わせる」のは自然だとイメージできませんか。
<神語のリアリティー効果>
以上を別の言葉で言い変えるとこういうことです。
~バプテスマのヨハネの言葉は、われわれに「キリストやエリヤや他の預言者たちの言葉」の特質を推察しやすくしてくれますよね。
けれども推察は推察です。
これだけではこの三者のことばの重みが、リアリティーをもって我々の心に入ってくる可能性は小さいです。
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そこで、これらの言葉が、すべての被造物が創られる前から存在していた霊的実体(神語)の翻訳語だった、としたらどうでしょうか。
ヘブライ語に訳された神語。創世前から存在していた創造神の意志を表す言葉。
その神語という霊的実体に、キリストやエリヤたち預言者の言葉の源があるとしたらどうか。
聖書の提供する全体像はより深く確実感のあるものになるのではないか、という気もしてくるのですが・・・。
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