前回から少し間が開きましたが、続きです。
これまでに鹿嶋は、「姦淫の女」への律法に関して考えました。
「この女は律法に沿って石打ちでもって殺すべきではないか」、とパリサイ人らエリートたちはイエスに問いかけましたよね。
イエスはこれに対して「罪なき者が先に石を投げよ!」と応じた。
エリートたちはイエスの剣幕に押されて去って行った。
だけど、「石を投げられるのは罪を犯していないものだけ」という施行細則のようなものは、律法には述べられていません。
イエスはまた、彼女に「私もあなたを罪に定めない」といいました。
そんなこといっていいの?
律法はどうなるの?
~鹿嶋にはそういう疑問が湧きました。
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だが、こう考えました。
もし、天の神語(かみご)には、律法として示されてないような条文があるのなら、イエスのこの対応は正しいかも知れない~と。
すると今度はこういう疑問が浮上しました。
もしそうだとしたら、エホバ神はどうしてモーセにそれを伝えなかったか~と。
今回、それに関する鹿嶋の自由思考を述べてみます。
<律法が溶けてしまう>
結論から言うと、こうです~。
~つまり、そこまで律法として示してしまうと、もう律法の概念そのものが、人間の心の中で処理できなくなってしまうのではないか。
具体的には、律法はどんどん緩くなって、ついには溶けてしまうことになるのではないか~と。
これは律法全般にも及ぶ可能性がある。
つまり、「姦淫の罪」が緩くなって溶けてしまうだけではない。
さらに進んでついには「律法⇔罪」という理念も希薄になってしまうからではないか~と思われるのですね。
<知性の弱さを見通していた>
創造神は、そういう人間心理の弱さを見通していた。
だから、律法としてはまず、シンプルに「罪を犯したら石打ちせよ」と示した~そう考えるわけです。
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実際、人間の知性って単純なものですよ。
アインシュタインも「人類の愚かさには限界がない」~との言葉を残した、とルーク唐沢はいう。
鹿嶋が70年少々生きた人生体験からしても同じ見解です。
<「洞察力」が知性の評価基準>
鹿嶋は、知性の度合いは「洞察力」で測られると思っています。
洞察力とは「ものを“厚み”で見る能力」と言ったらいいでしょうかね。
同じ物事をみても、大半の人間はそれを「表皮的に」しか見られない。
厚みというか、深奥でみることができない。
こういう人の判断は、もう間違っていきます。
ところが本人は、それで理屈がたつもんだから、それが正しいと思っている。
これ、どうしょうもないんだよね。
鹿嶋の経験では、東大の学者さんにこういう人の比率が多かったけどね。
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もちろん洞察力を生かして妥当な認識をする人もいますよ。
だが、それは全体からしたらほんの1%前後という印象ですね、鹿嶋の経験では。
<神様にどうしても聞きたいこと>
そうした事象を繰り返し観察してきた鹿嶋は、こんなことを夢想をするようになっています。
~もしも将来、創造神と御子イエスに質問する機会が与えられたならば、次のことだけはどうしてもおたずねしたい、と。
つまり~、人類を「洞察力のある人がほんの少しにしかならないように、どうしてお創りになったのですか?」~と。
ついでにこんな苦情も付け加えたいな~。
「この比率をもう少し高く創ってくださっていたら、人類はこれほどまでに悲劇を繰り返さなくて済んだのに・・・」
~これはもうほとんど泣き言ですけどね。
<ヨハネは何故書かなかったのか>
ついでに、もう一つ、こんなことも考えてみました。
~イエスが地面に書いていたのは何だったろうか~と。
「ヨハネ伝」の著者ヨハネはイエスの手元を見ていたと思いますよ。
だって彼はペテロと並んで、常時イエスの両脇を固める「助さん角さん」だったのですからね。
ここでもイエスの脇に立って見ていたにちがいないのです。
なのにどうしてそれを「ヨハネ伝」のなかに書いていないのか?
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結局、こう考えざるとえなくなりました。
~イエスはこのとき地面に、天の神語を書いていたのではないか。
だったらそれはヨハネが知らない文字ですから、読めないよね。
だから書けなかった、のではないかと思います。
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ここでイエスが地面に書いていたことは、重要な内容を持っていたでしょう。
イエスのそういう教えは、ヨハネは他の箇所ではみんな書いている。
文字がわかったら、ヨハネが書かないはずはないでしょう。
こうした考察をしきた鹿嶋の心には、神語に関する実在感が濃くなってきています。
今後、「創造神の懐にはその意志が現れた神語がある」、という仮説を抱いて聖句解読をしていきたいと思っています。
それで聖書の論理に支障が無い限り、そうするつもりです。
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