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<「全知」と宣言するメッセージ>
キリスト教の教典である聖書は、全体的にいえば「創造神の導きで書かれたもの」と自ら宣言しています。
旧約聖書は「創造神メッセージの受信記録が中心になっている」という。
新約聖書は「創造神からの導きを(霊感に)受けて書かれている」という。
まとめていえば「どちらも創造神の導きで書かれたもの」となり、
「聖書のつまるところの著者は万物の創造神だ」ということになります。
万物を創造した方となれば、万物の全てを知っておられることになり、
そこから出る知識は、修正不要な究極の知識である「真理」となる。
~これは前述しました。
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<対する人間は有限者>
さて問題は、そういう宣言を持った聖書メッセージに、有限な存在である我々人間はどう対すべきか、です。
人間には、認識可能な空間からして、すでにもう、限りがあります。
人は自分たちの住む宇宙ですら、その全てを知るにはほど遠い存在です。
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<二つの代表的姿勢>
では、どう対応したらいいか?
まず我々日本人の現状から見ていきましょう。
大半の人々は「全知者のメッセージだなんて、そんなのウソだ」というでしょう。
「宗教の教祖はみなそういうものだ。 だけどウソだ」と。
・・・・
これは戦後日本の精神風景でもあります。
太平洋戦争での敗戦直後、日本の青年たちは「宗教に騙された・・・」と痛感し憤怒しました。
「天皇は現人神(あらひとがみ)である。 異民族が攻めてきても蒙古来週の時のように、
カミカゼが吹く」
~と小学校から教えられ、信じてきた。
なのに沖縄を米国艦隊が取り囲んでも、カミカゼは吹かなかった。
多くの友が国を守ろうと戦死したのに、吹かなかった。
+++
「騙された。もう宗教は絶対に信じないぞ!」
青年たちの怒りに充ちた決意は、戦後日本の精神文化の基調になりました。
いったん出来上がった思想基調は、社会の大動乱があるまでは続きます。
後の戦後世代にもこの精神は受け継がれ、今も「そんなのウソだ!」という人が大半となっているのです。
・・・・
そうしたなかで、数は多くはありませんが「絶対に神の言葉です!」という人もいます。
教会に通う信者さんの大半がそうです。
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<どちらも自己矛盾>
だが、よくみるとどちらも矛盾を含んだ姿勢です。
人間は、全ての存在を知ることが出来ない存在です。
それがどうして「全知者からのもの」と宣言するメッセージに対して
「絶対にそうでない」とか「絶対にそうだ」とかの判断を下せるのでしょうか。
どちらも、矛盾したことを言っている。
自己矛盾です。
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<「半信半疑」が自然な感覚>
ではどうしたらいいか?
われわれ有限な人間は、素直にその状態から出発したらいいのではないでしょうか。
日常我々は「半信半疑」という言葉を使いますね。
見えない世界のことは半信半疑であるのが、生身の人間の姿です。
確率の考えで言えば、真偽は五分五分ということですね。
+++
そこでその中身を考えてみる。
すると最初の五分は、「そこには真理があるかもしれない」という期待の感情を持った五分でしょう。
あとの方の五分は「真理などないのでは?」という、希望感の薄い五分です。
生身の人間には、その二つの心理が同居しているのです。
+++
無理をしないで、そこから自然体で出発する。
この状態でも、気持ちの軸足をどちらに置くかで行動は異なるでしょう。
後者の「期待できない」という感情に軸足を置いたらどうか。
聖書の言葉に興味は湧かないでしょう。
だから聖句を吟味したりはしません。
それで「サヨナラ」です。
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<期待感の方に軸足を置く>
他方、後者の期待感の濃い気持ちのに方に軸足を置いたらどうでしょうか。
聖書の言葉への関心が湧いてくるでしょう。
聖句に分け入って調べてみようという欲求も湧いてきます。
すると、聖句吟味に入っていく可能性が出ます。
+++
そして調べ、吟味していったらどうなるか。
聖書では「真理だ」とするものでも、そのまま直裁的に表記されていることは少ないです。
前述しましたように、「旧約聖書の聖句は、イエスを比喩で述べているもの」とみるのがイエスの教えです。
キリスト教の読み方はそうなります。
比喩(たとえ)であれば、解釈が必要になるでしょう。
そして、どう解釈するかを考えることは、すなわち聖句吟味をすることなのです。
+++
新約聖書にも、吟味の必要な聖句が多くあります。
イエスは自分の言葉は真理だと言って語りますが、それを喩えで沢山語っている。
それを記録した聖句が沢山あるのです。
+++
新約聖書にはまた、イエスが喩えでなく、そのまま語る言葉も記されています。
だがその意味は深いです。
その意味を理解し味わうにも、やはり吟味が必要です。
その作業を、理性だけでなく霊感も動員しておこなう。
それすなわち、聖書の探究であり吟味です。
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<「これは真理だ!」との確信>
吟味・解読に入っていくと「これは人間には考案できない知恵だ・・・」と感心する知識に出会うことがあります。
この体験は、聖句への信頼感を増大させます。
出発点では五分あった信頼感が、六分に変わる。
「信頼できない」という気持ちとの比率で言えば、六分四分になるわけです。
すると期待感も増しますので、人はさらに探究を進めます。
そしてさらに「人智を越えた知恵」と感心する知識に出会いますと、信頼感は七分三分へと上昇するでしょう。
そうやって信頼感が増していくのが、世に言う「信仰が増す」という心理の中身です。
このようにして進んでいくのが、生身の人間の「正しいキリスト教の学び方」だろうと筆者は考えます。
おそらく「正しいキリスト教活動」とは、その学びを中核にする活動でしょう。
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<聖句吟味のあるのが正しいキリスト教学習>
ここからは余談です。
「五分五分の期待感から聖書吟味を始めて、信頼感が自然に高まるにまかせ」たらいいんだ。
こういわれると、恐怖感に襲われる人も出るでしょう。
我が国ではとくに、教会に通う信仰者にはそういう人が多いようです。
「そんなことでいいのか!」
「100%信じないで聖書を読むなんて、神様への冒涜ではないか!」
「牧師先生に叱られる・・・」
~もう聞いた瞬間にフリーズして身体が固まってしまうのですね。
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けれどもよく考えるとこれでいいことがわかってきます。
その方が、むしろ、聖書の論理にかなっているのです。
次の聖句はそれを示す一つです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「わたしは彼らが熱心に創造神に仕えていることについては、その通りだと証言します。
しかしそれは深く知った上での熱心ではないのです」
(『ローマ人への手紙』10章9節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
新約聖書の中の一節です。
パウロという宣教者がローマの信徒に向けて書いた手紙中の聖句です。
ここでパウロは「信仰に知を」と訴えています。
やってみればわかりますが、聖句吟味のない信仰は、その心温は熱いのですが、底が浅いです。
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<理性も与えられている>
聖書には、創造神は人間を感性だけでなく、理性をも持つように造っているという思想も貫徹しています。
人間が五感で経験認識できる範囲は限られています。
だが、その直接的な経験認識を手がかりにして、その範囲を超えた世界の認識を試みる。
この理性を使って、さらには霊感も動員して、推測し想像をめぐらせる。
そうやって信仰を底の深いものにしていく。
パウロはこれを勧めています。
有限な人間にはこれしか無限の世界を知っていく道は与えられていないからです。
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<自由意志をもつようにも創られている>
また聖書では、創造神は人間を「自由意志を持つ生き物として」造っている、という思想も貫徹しています。
創造神は、その様に創造した以上、人間の自由意志領域には立ち入りません。
全能者だから基本的には何でも出来るのですが、自らそう定めた以上立ち入ることが出来ない。
それほど徹底していますので、「人間が創造神の言葉を信じる」という行為も、自由意志によるものを認められる。
「恐れ」によって強制的に信じさせられての信仰を好まれません。
+++
話は少し先に飛びますが、イエスはだから福音伝道を天使にさせないのです。
創造神が人間を幸福にしようとして送られるメッセージが福音(ふくいん:英語はゴスペル:gospel)です。
その伝道をイエスも人間にゆだねられている。
天使は人間と同じく被造霊です。
けれども、肉体をもたないから死の恐れがない。
しかも、自ら火にも風にもなる「力ある霊」です。
こういう被造霊は、強く統御する必要があるのでしょうか、天使は天使長の元に軍隊のように統率されて動く存在となっています。
(この知識もまた聖句理解のために重要になってきます)
軍団では行動はすべて「命令⇒服従⇒(従わねば懲罰)」の原理でなされます。
天使はこうやって動いているのです。
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こういう被造霊に福音伝道をゆだねれば、その伝道もまた、「命令⇒服従」様式でなされるでしょう。
力ある霊ですから、「福音を受け入れない人間の行く火の池」の幻を人間に見せることも出来るでしょう。
そうやって「信じなければどんな悲惨なことになるか」と脅して受け入れさせることになる。
恐怖で信じさせるのです。
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だがそれは人間を「自由意志を持つ存在として造った」鉄則に反します。
だからイエスも、伝道は人間にさせるのです。
イエスは天に昇る前に、弟子たちに宣教命令を与えていきます。
そのイエスの行為は、上記のようなつながりをもっています。
まあ、これは上級編の知識を含んだ話です。
だが、「創造神が人間の自由意志をいかに大切にされるか」をよく悟っていただく願いもあって、あえて書きました。
ともあれだから、人は理性と霊感を動員して、自由に聖句を吟味していいのです。
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<信仰でなく信頼>
最後に余談をもうひとつ。
実は世に言う「信仰」という訳語は適切な語ではありません。
ヘボン先生の邦訳のもとになっている英語はfaithまたはbeliefです。
これは「信頼」の方が適切です。
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「信仰」には「信じる」と「仰ぐ」という二つの意味が混ざっています。
前述のように「信じる」は「肯定的に認識する」という認識の一形態です。
信仰は,これに「仰ぐ」という意味を組み合わせた言葉です。
そしてこの「仰ぐ」というのは、意志の力を必要とする一仕事という性格をかなり持っています。
信じたら自然に伴ってくる心理ではない。
フェイス(faith)にはこういう複雑な心理のニュアンスはありません。
+++
およそ二文字からなる漢字は、程度の差こそあれダブルミーニング(二重の意味)を持った言葉になります。
その意味では信頼もそうですが、同じダブルミーニングでも「信頼」の方がクセが少ないです。
「頼る」というのは、「肯定的に認識する(信じる)」と、比較的自然に沸き上がる心理です。
「肯定的に認識する」対象は力ある全能者です。
こういう存在を「信じて心に受け入れる」と、それに「頼る心情」は「仰ぐ心」よりもはるか自然に伴ってくるのです。
英語のフェイス(faith,belief)のニュアンスは、日本語ではむしろ「信頼」が近いです。
筆者は、信頼の語を通常使うことにしています。
(「キリスト教の正しい学び方」 第11回 完)
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