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心の平安をイエスはとても重視している。
「自分が(殺されて)去る」と告げたときにも、弟子にまず、平安について入念に語っている。
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<諸君に平安を残します>
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「わたしは、諸君に平安を遺します。
諸君に私の平安を与えます。
わたしが諸君に与えるのは、世が与えるものとは違います。
諸君は心を騒がしてはなりません」
(ヨハネによる福音書、14章27節)
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この背景は次のようになっている。
イエスと弟子の仕事の骨子は、次の二つだった。
① 天国(御国)について伝える。
② それを「しるしと不思議」(奇跡)で証明する。
これらにつき、弟子はもっぱらイエスに頼りっきりだった。
特に、②はそうだった。
そのイエスが、突然「自分は殺されていなくなるよ」という。
実際、まもなくイエスは弟子の目の前でとらえられ、すさまじい拷問を受け、十字架につるされて絶命する。
弟子たちはそれを予告されて、不安や恐れをこえた、ほとんど恐怖に襲われる。
周囲には敵対する人も多い。
これからどうしていったらいいのか。皆目わからない。
これに対してイエスは、上記の聖句を語ったのだった。
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<天の平安。地の平安>
しかし、この聖句でイエスが伝えようとしている心理状態を的確に示す日本語はない。
「平安」は役不足なのだが、これをpeaceの訳語として使っている。
これしかないので使っている、というのが実情だ。
なぜなら、イエスの言うピース(平安)には、二種類が想定されている。
「天(天国)の平安」と「地(地上)の平安」だ。
イエスはそのうち前者の「天の平安」を語っている。
それは一つの「意識波動実体」であって、「グレース(無償の愛)に満ちた静謐の空気」とでもいうべきものだ。
だが日本人にはそういう心理状態が伝統的にないので、対応する言葉がない。
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<平安>
平安は「平らで安らか」というだけで、抽象的だ。
具体性が乏しく実感につながらない。
平安神宮とか平安高校というのは京都にあるが、日常には使われない。
これはおそらく中国からの輸入語(漢語)だろう。古代京都における言語文化には、漢語を直輸入して貴族階級が使っていたものが多い。これもその一つだろう。
だから日本語の平安は、これを感知させるには文句なく役不足なのだ。
(なのに邦訳聖書では、この語をもっぱら使っているので、「平安」巡るあたりで、漠然としてわからなくなる本と、日本人には聖書はなっている)
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<安心>
なんとか手触りを感じさせようとして他の言葉を並べれば、
安心、安堵、安息といったところか。
安心は、「心」のことだと示しているので、平安よりはいいだろう。
新約聖書には、イエスの「安心して行きなさい」という語の邦訳が一つだったか、ある。
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<安堵>
安堵は、恐怖が去った後に、どっと来る「安心感」というニュアンスがある。
そういうリアルな感触がある。
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<安息>
我々の感覚に比較的ぴったりくるのは「安息」だろう。
心の安らかさには、吐く息、吸う息が色濃く関連している。
安らかさがないと息が乱れる。
安らかだと息が静かで平で落ち着いてくる。
「息」にはそういう体感、身体的感覚にも繋がっているので、安息は実感しやすい言葉なのだ。
かといって邦訳聖書では平安がすでに常用されている。
そこでこれも無碍に捨てるわけにはいかない。
だがこれからはなるべく、peaceに近い感触を得る必要がある。
そのため「平安」「安息」「安堵」「安心」「平安(安息)」「安息(平安)」といったような語を適時使う必要がある。
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