われわれは、第二次大戦後の70年の平和が自然に出来たと思っている。
終戦直後から進んだ民族独立の動向も、自然に起きたとの印象を持っている。
だが、真実は全然そうではないのだ。
すべては米国のイニシアティブで、そのギブ(無償の働き)によってなされている。
米国は、戦争を終結させただけではない。
大戦に巻き込まれた先進国の人民も、戦後極貧の中にあった。
この貧しさが、彼らの心に再び弱小国の侵略・搾取への欲求の灯をともす危険は大いにあった。
米国はこれに対しても、先手を打っている。
ガリオア・エロア資金でもって、オーストリアやドイツを初めとする欧州諸国、また日本や韓国などの極貧状態の人民に食料援助を与えている。
「もう二度と世界大戦を起こさせない」という米国の意志と働きには、日本流に言えば、神がかり的なものがあったのだ。
<日欧の戦後映画文化も>
そのおかげで戦後70年の世界平和が維持されている。
欧州のヌーベルバーグ映画も、アランドロンやジャンポールベルモンド、ソフィアローレン、マルチェロマストロヤンニら名優の映画文化も、この傘の下にあってこそ実現している。
日本の日活映画ブームも、石原裕次郎映画も、70年代の若者フォーク文化も、我々は当たり前のようにして享受してきた。
だが実はみな米国が造り維持してきている、この平和の傘の下で可能になっているのだ。
<米国だけが起こし得た奇跡>
繰り返すが、傘は第二次世界大戦中に造られている。
米国の政治指導力が、この大戦末期を格好のチャンスとしてとらえ、列強諸国の姿勢を変えさせた。
人類史ではそれまでは、強国が統治能力の劣った後進国を征服して隷従化させ、そこから利益を吸い上げる、という行為は世界の常識だった。
強国の統治者にとってこれは、自国の人民の物欲、獣欲を短期的に満たさせるに最も有効な方法だった。
だから先進国民国家の統治者たちは、人民の欲望に従って弱肉強食の植民地政策をとってきたのだ。
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米国だって、物理的には条件は同じだ。
自国の国益極大化だけに重点を置いていたら、弱者の植民地化と収奪を選択できる状況にあった。
なのにこの国の統治者はその機会を自ら放棄した。
そして他の列強諸国をも、自らの理想ビジョンの方向に、基本路線を転換させた。
これは地球上に起きた、ほとんど奇跡といっていい出来事である。
米国内で、この世界運営思想が、早くも第一次大戦勃発の時点に発生したのも奇跡だ。
前述のように、フーバーは戦争、革命、平和を研究する機関すらスタートさせた。
研究が進み、その成果が国家統治の担当者にも浸透した。
通常の人間国家では、こんなことは起きえない。
フーバーのような思想家かつ実践家がいたとしても、統治者レベルにこの思想が浸透し保全されることなど起きない。
保存されていたからこそ、世界大戦というのっぴきならない事態に列強国が飲み込まれている事態を、天与のチャンスとして素早くとらえることが出来たのだ。
まことに脅威ずくめである。
<従軍慰安婦を問題に出来るのも>
いま我々は、大戦中に国際常識を180度転換させた、米国のその恩恵の中で人生を享受できていることを自覚せねばならない。
繰り返すが、この大戦を機に、理想の国際社会観が一転し、世界運営の思想も方式も過去の人類史と真逆になったのだ。
韓国が抗議している戦前日本軍の強制慰安婦問題も、この常識転換があってこそ可能になっていることを悟らねばならない。
人類の常識が従来のままだったら、征服国が被征服国の女性を性奴隷にするなど、当たり前のことだった。
この常識変革がなかったら、賠償請求というアイデアもそもそも起きなかったろう。
万一誰かが賠償請求を起こしたとしても一蹴されただろう。
もちろん、こういう抗議ができるようになった世界ができたのは、日本人にも幸福なことである。
だが、これが世界常識の一大変革の結果であること、を知らねばならない。
新たな国際関係の常識が米国によって奇跡的に造られたからであることを、
日本人も韓国人も共に悟らねばならない。
(続く)
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