前回、自由吟味者の人生観と、それに影響されて抱いている米国人一般の人生観をみた。
今回は、それと比較して日本人の人生観を眺めてみよう。
「自分の肉体以上に価値あるものを心に抱く、という型」の人生観は、日本人には結構昔からあった。
だがそれは武士という階級にあった一部の人々のものであった。
<武士の人生観>
昔とは、江戸時代である。
この時期、庶民は人性「観」といえそうな理念を持つには至っていなかった。
それなしで、家族の団らんや男女間の性愛を味わって日々生きていた。
他方、武士階級は、子供時代から「論語」をまなび、儒教の人生訓を学んでいた。
だがこの人生思想は、家族や国家の中での個人の行き方を述べるものであって、人間自然の情を確定する性格の強いものである。
個人を理念によって、自然の情を乗り越えさせるタイプの人生観ではなかった。
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けれども武士たちは、儒教由来とは別に、強力な人生理念をもっていた。
武士道がそれである。
江戸時代、武士は藩に分かれて住んでいた。
隣接する藩は、常時潜在的な敵国であった。
これは多民族が国境を接して国家を運営する、近代欧州を緩やかにしたような状況である。
武士たちは、ひとたび他藩との戦になったら、最大の戦力を発揮する心構えで暮らしていた。
各藩では、戦争技術や人員は互いに似たり寄ったりだった。
こういう場合、戦士が「死を恐れない度合い」が戦力を決める。
そこで彼らには、常時「死を覚悟」して暮らすことが求められた。
それが「肉体の生命以上の価値を持つ人生哲学」を形成した。
それが武士道であって「武士道とは、死ぬことと覚えたり」はその核心を示している。
<自分の生命より藩主を上位に置く>
武士道において、自分の肉体の生命以上に価値あるものとは、自藩であり、藩主であり、藩主の栄誉であった。
そのために恐れずに、「自らを戦のための用具とする」人生思想をもって武士たちは生きていたのだ。
<明治新国家の人生観>
明治新政府の為政者たちにとって、これは問題であった。
西欧列強に植民地にされないためには、藩ではなく国家に忠誠させねばならない。
そこで、武士道精神の「型」を利用して、藩と藩主を国家と天皇に移し替えることを考えた。
新政府がいち早く進めた、版籍奉還、廃藩置県がそれであった。
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これには藩主の大抵抗が予想された。
彼等は自軍〔武士)をもっている。
これがあちこちで叛乱を起こしたら、西欧列強の思うつぼだ。
西郷隆盛ら明治政府の為政者は、まず、天皇を警備するという名目で、1万の近衛兵つくった。
反抗する藩は、これでもってたたきつぶすという構えでもって、版籍奉還を実現した。
大村益次郎〔村田蔵六)は、広く国民が応募する、西欧式の国軍を創成していった。
このなかで従来の武士道は、国民道となって人民全体に普及していった。
こうやって日本は国民国家の形を整えていったのであった。
<日清戦争>
国民軍を確立した新政府は、手始めに弱体化した清国との戦を起こした。
清国は当時、日本の幕藩国家のような構造になっていて、国家としての一体性は弱かった。
これとの戦争は、ある意味で促成栽培した国民軍隊の練習でもあった。
そして、ここで、国家武士道は有効に働いた。
<日露戦争>
ついで、ロシアと開戦した。
当事この国は、日本の存続をあやうくする国際行動をとってきていた。
日本は恐怖の中で、国の存亡を賭けての戦をした。
そしてかろうじて勝ったが、ここでも国家武士道は有効な機能を果たした。
<国家武士道思想がエスカレートする>
それ故もあって、この勝利は、武士道的国民思想がエスカレートする精神土壌をつくった。
国家の戦のための自爆武器となる人生観を、さらに強化しようと為政者は動いた。
国家武士道を、神社信仰の中に収納することを試みた。
明治天皇死去の際に、乃木希典夫妻に殉死してもらうこともした。
これがまた自爆人生観を増幅させ、日本人の人生観はますます単純化した。
これは明らかに「やりすぎ」であったが、この頃日本の指導層には能力劣化がすでに始まっていた。
<自爆人生観の自爆>
自爆人生観は、小学一年生から教えられるようになっていった。
日本国民の人生観はこれ一色に染められた。
日本国家には、対外戦争を求める動因が不気味に蓄積していった。
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明治期の武士道国家人生観は、列強の侵略から身を守るという防衛動機に押されて働いた。
だが、第一次大戦で勝利国側に加わっていたのを契機に、明治期の恐怖を与える国はなくなった。
そいて対外戦争志向は、弱い国への侵略に向かっていった。
朝鮮を併合し、満州国を建国することでもって、中国から満蒙地域をもぎ取った。
国際連盟の国際法は、これを否定した。
すると日本は、国際連盟を脱退して「我が道を行く」と宣言までした。
日中戦争を始め、東南アジア諸国を侵略した。
戦争志向はさらにエスカレートし、ついに、自分より強い国家アメリカに宣戦を布告した。
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今回は詳論する余地はないが、日本指導層の劣化は留まることなくすすんだ。
太平洋戦争末期の指導層には、戦争を終わらせる能力はまったくなかった。
各地の戦線で、軍部指導層が勝手に、兵士に自爆テロを繰り返さすのみだった。
この惨劇は、米国が鉄槌を下し、ソ連が参戦し、天皇が一肌脱ぐことで、ようやっと停止した。
<戦後の世界指導国の苦慮>
戦前・戦中を通して、国民は小学校時代から「天皇のために戦って死ぬことに最高の価値を置く」人生観で染め上げられていた。
一度教え込まれた人生観は、降伏してもなかなか、変わらない。
加えて日本人には、それにとって代えられる人生観の素養が育っていなかった。
これはもう決定的なことだった。
日本民族は軍隊を持たせれば、また、同じことをし始める性質に満ちていたのである。
<憲法九条と日米安保条約>
戦後の世界指導国は、この日本をどう扱うかに苦慮した。
そして、ついに、とりあえず軍隊は持たせないことにした。
それを憲法九条にうたわせた。
そそて日本の防衛はアメリカが担うことにした。
憲法九条は日米安保とセットとしてスタートしているのである。
<英霊の犠牲を反省してつくったという妄想>
ところがこの憲法九条を、しばらくして、日本人は「生きたいのに死なされた若者への哀悼」の結果、出来たものとの妄想を抱き始めたのである。
三等国意識〔戦後、日本人は自らをそう評した)から逃れるためか、とにかく、そういう説明が急増した。
それが「反戦」思想と結びついて、妄想が固定化してしまった。
戦後、日本民族は、憲法を自分で作る立場になどなかったことなど、少し考えたらわかることなのに・・・。
<戦後の人生観>
連合国がつくった平和の中で、日本民族は従来の「戦争用具人生観」を反省し、否定し始めた。
かといって、別の人生観など持ち合わせていないので、結局、真逆の方向に進むのみだった。
~「もうとにかく、自分の生命以上の価値をもつのはごめんだ」という思想だ。
国家も、天皇もくそくらえ。
皇国の神などいない。
そんな「見えないもの」を信じさせられたから、戦争に行ってしまったのだ。
霊魂がどうこう言うヤツはあぶない。
遠ざかれ。
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その結果、戦後日本人は、自分の肉体の生命が最高に価値あるもの、という価値観に転換したのだ。
生命〔肉体の)尊重だ。
後に「人命は地球より重い」との台詞を発する総理大臣もでた。
<欲望充足で行こう!>
「反戦!」「生命尊重」の思想になだれ込んだ戦後日本人は、結果的に、本能、欲望を素直に発露しよう、という人生姿勢に走った。
知識人ぶる者は、サルトルの実存主義に浸ったりした。
「実存は本質に先行する」
つまり、何のために生きるか(本質)などより、今生きている実存が先だ、というのだ。
これも本能発露主義に他ならなかった。
人々は、スポーツ興奮主義にも走った。
フリーセックスにも走った。
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映画会社、日活が、石原裕次郎に欲望発露を躊躇なくする若者を演じさせた。
若者たちは一斉にそれに心酔して裕次郎ブームが起きた。
日本人は純朴の民なのだ。
<若者フォーク文化>
だが、こういう生活を送れているのは、憲法九条と米国の全面保護体制のおかげであった。
ベトナム戦争が起き、米国でヒッピー(意図的な若者乞食)が発生した。
それは戸籍を持たない乞食になって、戦場行きから逃れようとする、若者の必死の行動であった。
彼等からフォークソングなど、独自な文化も生まれた。
日本の若者はその文化だけを真似た。
そして、日本独特のフォーク文化が豊かに花開いた。
だが、それは、徴兵の恐れが皆無な土壌での花だ。
そしてそれは、米国が防衛軍備を全面的に肩代わりしてくれた状況で可能になっていたのだ。
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いまこの体制が、集団的自衛権が通過することよって、ついに崩れた。
当面自衛隊員だけでも、他国の戦争に協力して戦わねばならなくなった。
戦場では、生命の危険が常時伴う。
その状況には、自分の生命に最高価値を置く姿勢は、適合しない。
そこでは肉体の生命以上の価値を抱く、人生哲学が必要になる。
それがないと、人は恐怖で、精神疾患になってしまう。
戦場で「生命尊重!」などと叫んでいたら、弾丸が当たって死んでしまうのだ。
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だが日本人は、戦後70年間、反戦、平和だけの一本で来た。
そこに突然の集団的自衛権・・・。
若者は仰天した。
そして、「死にたくない」「殺したくもない」と叫び始めた。
これが現状である。
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