海外出張から帰国しました。
「ヨハネ伝解読」を続けましょう。
11章には、イエスが死んで4日たったラザロという若者を、生き返らせる場面が中心に記録されています。ここはヨハネ伝の中で話が転換するポイントでもあり、かつ、とても考えさせられるところの多い章です。途中他の情報を入れないで、この章の解読を一気に続けてしまいましょう。
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=聖句=
「昼間は12時間あるだろ。誰も昼歩けばつまずかないよ。この世の光を見ているからね。だが、夜歩けばつまずきます。光がその人の内にないからね」11章9~10節)」
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弟子たちはイエスに「危険だからベタニア地域には行かないでください」といいました。
だが、イエスはここでまた「え?」と思わせることを言うんですね。
「一日には(昼間が)12時間あるじゃない? 昼間歩けば誰もつまずかないよ。この世の光を見ているからね」(9節)と。
さらに言います。
「だけど、夜歩けばつまずく。彼のうちにその光がないからね。」(10節)。
これは一体、何でしょう。何を言っているのでしょう。もちろん、文字通りの物理的な話ではないでしょうね。昼間には光があって、夜には光がないーーーあったり前の話だ。そんなことだったらイエスがわざわざ言うはずがありません。また、ヨハネがわざわざ記すはずがないでしょう。
それに「夜歩けばつまずく。彼の『うちに』その光がないから」といってもいますよね。「うちに」光があるか無いか、というのは物理的な次元の話ではないですよね。
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とするとこれは「たとえ」になりますよね。で「たとえ」には複数の解釈が成り立ちます。「創造主からは栄光という光が発せられていて、その内を歩いていれば、たとえユダヤ人たちに殺意があっても実現することはない」というのも、その一つでしょう。
これですと、少しわかったような気がしてきます。だけど、まだ、はっきりしませんよね。もう少し具体的に理解したい気もしてきます。
そこでこう考えたらいかがでしょうか。
ここではまず、イエスの言葉全体が何を言っているかに焦点を当てます。で、結論から言いますと「今はまだイエスが死ぬように計画されたときではない、もうしばらくはこの世でのイエスの活動を描く舞台に照明の光が当たっている。その光が当たっているあいだにはつまずいてころぶことはないよ」と言っていそうに思えます。
<イエスの生死は計画されている>
どうしてそんな解読になるでしょうか?
聖書の論理では「ことイエスの生死に関しては、この世が創造される前から完全に計画されている」ということになっているからであります。
この世での出来事がすべて予定されている、というのではありませんよ。今日あなたがご飯を食べていて箸を落っことしたとしても、それは予定されていてそうなったわけではないでしょう。
けれども、イエスの生死に関しては完全に予定されたとおりに進行するとしているのです。
だから「この時点は、まだ自分が死ぬ時ではないよ」と、イエスは言ったのではないか。もしそうでしたら、それを弟子たちに知らせるには、あまりにたくさんの説明がいります。
また、今それを言うときでもない。イエスは後に最後の晩餐の時になって弟子にそれを言いますが、彼らの大半は依然それを納得できないのですから。
それでまあ「光のある間に歩けばつまずかない」といった。どうせわからないんだから、実態とかなりかけ離れた話だけれど仕方がないのでしょう。でもその真意は「父なる創り主の計画によれば、今はその光のあるときだ。だから殺されないんだよ」ということだった、と春平太は現時点では解しています。
<処世の知恵ではないでしょう>
この聖句を、人間が生きる際の人生訓と解説するセンセイもいますよ。
「光のあるうち」というのは「若いうち」である。人間誰でも老齢になると、肉体が衰えてしたくても出来なくなることが多い。だから、若いうちに志をなしておけ、と。こういう風な解釈をする。
この聖句をどうやって拾ってきたのか、結婚式の祝辞で、引用しててそう解説するんですね。お祝いの寄せ書き色紙に、それをみたこともあります。
これほど徹底して世的ではないにせよ、結局は人生訓となる解説もあります。
~~光とはカミの導きである。それに従わないとつまずく。つまり、この世で失敗する。だから、常にカミサマの導きに従って歩くんだよ~~という。
こちらではカミサマが出てきますが、結局は人間が「この世」を世的な意味で失敗しないで生きる知恵として、この聖句を受け取っています。だけど、イエスがこの世で上手く生きることに焦点を絞って教えた知恵って、聖書にあるでしょうか。
イエスはこの世の話もしますが、その教えの究極のスポットは、天の論理の教えに絞られている。だからそれは霊界の論理です。そういう観点から、この場面で言わんとするところを具体的に考えると、それはやはり、「今は私が死ぬように計画された時でない」ということになるのではないか。それがベターな解釈ではないかと春平太は現時点では思っています。
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