鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

「キリスト教の正しい学び方」1 ~久々の連載~

2020年09月01日 | キリスト教の正しい学び方
 
 
久々に連載をしてみようと思います。
タイトルは「キリスト教の正しい学び方」と仮につけました。始めましょう。
 
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<目茶苦茶なキリスト教イメージ>
 
 キリスト教に関する日本人の認識は、誤解に満ちている。仰天するような、今流にいえばメチャクチャな誤解も多い。
 
~「ああ、宗教か・・・」
「宗教は、鰯の頭も信心次第でアリガタクなる、といった類いのものだ」
「なんでも信じれば有り難くなる、なんて馬鹿みたいな話しだ」
「オレは宗教はゴメンだ」
 
 日本ではこうしたイメージは当たり前で一般的だ。
その実状の中で、いきなり「これが正しいキリスト教ですよ」と話しても、はなっから会話にならない。
 
 上記の感想は、誤解に基づいている。まずこの仰天イメージ、仰天誤解に取り組むことから始めねば会話は進まない。
 つまり「正しいキリスト教」でなく、「正しくないキリスト教」をみることから始めるのだ。
 
 
<人のもつ「神イメージ」>
 
 誤解イメージが生じるには、相応の由来がある。「信心次第で鰯の頭も神様になる」は、人が抱く「神イメージ」の種類に密接に繋がっている。
 
+++
 
 人の認識は五感~視覚や聴覚などの~で物質を認識するときに最も明白になるようにできている。
だから人はまず生まれて以来、五感認識をベースにして日常を生きる。世界観も五感覚ベースで描いている。
 
 ところが、我々には第六感とか霊感と呼ばれるものも、かすかながらある。それによって五感認識を超えた世界もあることを、かすかに予感しながら人は生きている。
 
<神は「見えない影響者」のイメージ>
 
 また人は、五感認知できる物質世界だけでは説明できないことを経験もする。死んだ先祖の夢をリアルに見たり、あるいは、醒めているなかで人の幻を見たりすることもある。
 
 そうした経験を重ねる内に、我々は“神”のイメージを自然に抱くようになる。
 神とは、定義すれば「見えない影響者」だ。こういう「影響者のイメージ」を、漠然ながら心に抱いて人は生きている。
 
<「神イメージ」の出来方>
 
 われわれはこの“神”を、生まれて成長する中で、まず“物質の内部に”イメージする。
 巨大な木や岩に対面すると、そのなかに神を意識する。それを「ご神体」と言ったりする。
 
 荘厳な建物の前に立つときもそうだ。空や海や山も川も自然の物質で出来ている。その内部に「神が宿っている」とイメージする。
石や木に刻んだ彫像にも、また時には神秘的な雰囲気を持った人間にも、その中に神が存在していそうだと意識する。
 
 こういう有限な大きさの物質のなかにまず神を感じる。これは人間の自然の情だ。
 
+++
 
 筆者はこの「神(のイメージ)」を在物神(ざいぶつしん)と呼んでいる。「“物”のなかに存“在”するとイメージされる“神”」という意味での命名だ。
 
 在物神の語は憶えておきたい。
 
<「在物神」イメージの中身は感慨>
 
 在物神イメージの心理的中身は「感慨」だ。彫像や建物や巨木や巨岩を前にしてジーンとくる神秘的な感慨だ。
 感慨は感情だから、その中に理念・理屈がない。この神はどういう属性を持っているか、どういう働きをするかなどに関する理論がない。言い換えると存在理論がない。
 
 だから、在物神についての判断は、ほとんどもっぱらその存在が「ある」とか「ない」とかの感覚的判断となる。「信じる」という言葉の中身も、「存在していると思う」であり、「信じない」は「存在していないだろうな」という感情だ。
 
 
<在物神宗教>
 
 この神イメージを「存在すると思って」崇拝するのが在物神宗教だ。そして自然のままでは人は、生まれてこの方、このタイプの宗教しか知らない、身近にあるのはそれだけ、という心理状況でくらす。
 その結果人は、「神様とはその存在を信じるか信じないかの対象だ」という通念を抱いて暮らす。
 
 この通念は「なんでも神様だと信じれば神になるんだ」という思想に繋がっていく。そしてそれを批判的に外からみて「鰯の頭も信心」と皮肉交じりに言ったりもする。
 
 だが、そう語っているこの人も、自分が「在物神宗教しか知らない人」であることに気付いていない。
 
<「創造神」~自然発生しない神イメージ~>
 
 人類社会にはもうひとつ別の神イメージがある。
万物の創造神、というのがそれだ。
 この神は「物質も、その中に染み込んでいると創造される神がいるならばそれも含めた」すべて、自分以外のすべてを創造した神のイメージだ。
 
+++
 
 ところがこの神イメージは、在物神イメージとは違って、人の心に自然に生じることがない。
 
 在物神イメージは人の心に自然発生していく~。
 
 人は生きているなかで、物質を五感(目や耳)で自然に認知する。次に、認知した物質のなかに、自然に~本能的に~「見えない影響者」をイメージしていく。こうして在物神イメージは自然に心に生成していく。
 
+++
 
 ところが創造神の概念は人の心に自然発生しない。
なぜなら、人は「全存在物」なんてものを一度に五感で感知することはできない。感知できないものは、実体イメージが心にできあがらない。
 
 実体イメージがないのだから、その中に「宿っている神」というイメージも生じようがない。「すべての存在を創造した神」というような神イメージは心に“自然 に”できあがってくることはないのだ。
 
 
<創造神イメージは理念>
 
 創造神イメージというのは「外から言葉でもって」その理念が投げ込まれることによって心にできあがるイメージ体だ。
「存在の全てを創造した神がいるんだよ」という言葉が外から送り込まれて初めて意識に出現する。
 
 その事件が起きた状況が、聖書に記されている。その詳細は追々のべていく。
が、とにかく、そういう事件があり、それが記録され、かつ言い伝えられることが人類史の中でおきた。
 
 その結果、いま一定数の人類の意識には、創造神という神イメージも抱かれるようになっている。
 それが人類世界の風景だが、日本人にはそれに気付いている人は非常に少ない。
 
 だから「キリスト教 ⇒ 宗教(在物神信仰) ⇒ 盲目思想」 ・・・という誤解はごく自然に生じるのだ。
 
(「正しい学び方」1 ・・・ 完)
 
 
 
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