鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

<臨時版>聖書ある生活2

2010年09月14日 | ヨハネ伝解読
<パンと自価意識>

前に戻って一番目の「聖書」にいきます。
内村は「読むべきものは聖書」という。
あまたある書物の中で、なぜ彼はこの一冊を内村は「読むべきもの」としてあげるのでしょうか。

この言葉を聞くと鹿嶋には聖句「人はパンのみによって生きるにあらず・・・」が浮かびます。
この聖句では、生きるのに必要なパンの他のものは「創造主から出る言葉」となっています。

でも、これだけではよくわからんですよね。その「言葉」が「生きていく上でどのように必要なのか」を知りたい。


                    


 鹿嶋は、生きていくのにパンに匹敵して必要なのは、
「自分が存在するに値するという意識」だと考えています。そしてそれを短く「自価意識」といっています。
 これがなくなると、人間からは「何かをしようという意欲(やる気)」だけでなく、
食欲という生理的欲求すらも消滅してしまうのです。つまり生きていけなくなる。


                    

なぜでしょうか?
幼子と親を考えましょう。

 わが幼子はあまりに可愛いので、親はひたすら愛します。
そうしているうちに、親は自分の存在価値をその子の成長、仕合わせに役立つ面においてだけで
意識するようになります。
 
 その状態で、その子が消滅したらどうなるか。親は自分の存在価値の全てを意識出来なくなります。
つまり自価意識を喪失する。その結果、食欲すらも消滅してものが食べられなくなる。
つまり生きるのが困難になってしまうのです。


                    

<自価意識は自分を世界観に位置づけることによって>

もう少し考えましょう。
愛しい子から自価意識を得る心理過程はどうなっているのか。
まず直接には情感として自価感覚を得ます。
だが人間はもう少し知的な精神活動もします。親は心にイメージも描くのです。

たとえば「可愛い我が子の、成長と仕合わせに役立つ自分」をイメージする。
あるいはそれはより広く、「我が子のいる家庭・家族」、「我が子のいる社会」、
「我が子のいる世界」であるかもしれません。

いずれれであってもいいのですが、とにかく親はこのイメージした世界(とても価値ある)を描き、
その中に自分を位置づけています。そうやって自価意識を得ています。

 人間は知性を働かせてこういうイメージ世界、それを思想といってもいいでしょうが
とにかくそういうものを心に描く。これが動物と違うところです。


                    

動物は情感だけを持ちます。情感は浮かんだり消えたりします。
だから猫などは乳を飲ませていた生まれたての子供を取り去っても、
ちょっとの間寂しがりますが、すぐに忘れてしまいます。

 人間はそうではない。情感として自価感覚をもつとともにイメージも心に描く。
イメージには知性が働いていますので、持続的になります。
このイメージの中に自分を位置づけて自価意識を得ます。

その状況で幼子を失うと、現実がイメージを傷つけていきます。
すると自価意識がえられなくなって苦しみます。

こうした世界イメージを英語ではパースペクティブといっています。
日本語では全体観とか鳥瞰図という言葉が当てはまるでしょう。
そこで、人間は価値ある世界観・価値ある鳥瞰図の中で自分を位置づけることによって自価意識を得る、
ということもできます。

この鳥瞰図は壮大なものでなくてもいい。
愛しい子のいる家族だって~それ以外の何もイメージに加わって来ていなくても~一つの世界イメージ、世界観です。

                    

 ただしそのイメージ世界は、より広大で深遠なものであるほど、豊かに価値意識を供給します。
(精神世界が深いというのはそのことです)
 また確実感が強く、確固としたものであるほど、(そこから得る)自価意識は壊れにくくなります。

                    


<「存在」の理由>

内村の「読むべきは聖書」はこの確実感の強さに関係してきます。
聖書の言葉は、この確実感を強くする決め手のようなものをもっているからです。
決め手は具体的には「創造論」です。これを少し詳しくみてみましょう。


                                        

振り出しから考えます。
世界観とは「世界はこれこれになっている」というイメージですよね。

さて、世界って存在物でなっていますよね。
世界イメージとは存在するもののイメージでもある。

 そして「存在するもの」について、人間は「なぜそれは存在しているのか」
という「存在の理由を問う意識」を抱きます。
これは本能的に抱く。小学生でももう抱きます。

もっとも小学生の場合は、自分はなぜ存在するか?というように、
もう少し具体的なレベルで考えるかも知れないが、とにかく疑問を抱く。
自分がなぜ存在するかの答えがなければ、何のために生きるべきかを考え始めることも出来ない。
なぜ存在するかは「自分を考える出発点」なのです。


                    

あるいは早熟な子供は、これを自分や、校舎やグランドや親や先生等々と一般化して、
こういう存在一般はどうして存在するに至ったのだろうと考えるでしょう。

これへの答えがなかったら、世界イメージも確実にならない。
世界イメージが確実でなければ、そこから引き出す自価意識も確固たるものになりません。

 この答えを、人間は自力では出すことができません。
だが聖書は明確な見解を提供してくれているのです。具体的にはその中の創造論が与えます。
それは、万物は創造主によって作られたが故に存在する、という回答を提示します。


                     

 この回答は「絶対に正しい」と信じなくても効力を発揮します。
一つの見解として知っているだけでも有効だ。

創造論がなければひとは世界(存在物)について
「まあ、よくわからないけどとにかく存在するんだよね」となるしかありません。
世界イメージを描くにも、「そのへんのところはまああまり深くは考えないでさ・・」
という状態で出発するしかありません。

すると、その世界観はいつも雲の上をふわふわ漂うようなものに、実際なります。


                    

そういう確信の薄い鳥瞰図には価値を強く抱く気持は出ない。
するとそういう世界観に位置づけて得られる自価意識も弱いものに留まらざるを得ないのです。
 (これは実は、現代日本の弱点であって、そこから様々な社会問題が生み出されてきています)

 ところが創造論を知っていると、当面でもそれを用いて考えを作ることができる。
存在根拠ある存在物をイメージし、イメージ世界を描くことができる。これは貴重なことです。


                    

 人が生きるには、パンだけでなく自価意識も必須です。
そしてできれば強い自価意識を持って、活き活きした人生をこの世では送りたい。

そのために聖書を読む生活は、まさに実践すべきものなんですね。

次回は最後、「学ぶべきものは天然」です。


                    


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