血に関する論理的な考察をもう少し続けましょう。
人間の血に関して物理学的な理解を試みます。
それには「いのち」という聖書の言葉を考えないわけにはいきません。
聖書には、人間の血といのちとが重なった状態であることを示唆する聖句がいくつかあります。
「肉のいのちは血の中にある」(レビ記、17章11節)などはそれです。
<科学は「いのち」への論及を避ける>
ところが、科学では「いのち」について明言することが避けられています。
それは科学が強く五感主義的な姿勢を持っているからです。
「いのち」は目に見えません。
そういう五感で認識できない世界のものに論及するのには、科学者は過敏になっています。
<カトリック1200年の思考支配>
科学は、欧州ルネッサンス期に出現した一つの認識方法です。
それはカトリック教団による思考支配への反発によって生じました。
カトリックはローマ帝国の唯一国教となって以来、欧州人民の思考を、中世の1200年にわたって統制してきました。
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この教団は自らのなした聖書の解釈を、正統な解釈(教理)として、この受容を人民に強制してきました。
これに反する思想は「異端(いたん)」とし、異端審問裁判所までつくって、徹底普及させてきました。
聖書の解釈ですから、それは霊的な(見えない世界の)事柄にも大いに論及します。
そういうことがらも含めた自分たちの解釈を、正しいものとして受容することを人民に強制してきました。
これに知識人は特に苦しんできました。
<科学という認識方法>
だが、ついにルネッサンス期に対抗思想が考案されました。
それが科学という認識手法です。
この思想は、大多数の人間が確実に認識できるのは五感によるものだけだ、としていました。
そこで、認識対象を五感認識できるものに限定し、そこで因果関係を見つけ出していこう~とするものです。
考案者は、これを科学(サイエンス)と称しました。
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やってみると結構沢山の発見ができました。
科学への信頼は急上昇し、対照的にカトリック教理への信頼は低下しました。
その結果、今日では確実な認識はむしろ、科学によるのだ、という思想が優越しています。
聖書解読者も、敢えてこの風潮を乗り越えることはしなくなりました。
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この科学の五感主義で行くと、「いのち」は認識対象から外れがちになります。
そこで聖書解読でも「いのち」への論及は回避されます。
だが、そうすると、血の問題にも正面から取り組むことが出来なくなるわけです。
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<聖書の「いのち」はエネルギーのような概念>
そんなわけで、「いのち」と認識を漠然としたままで、聖書は読まれてきています。
けれども鹿嶋はこれに、大胆ながら仮説を立てて考察してきています。
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聖書の全体を眺めていると、「いのち」は物理学で言うエネルギーのような概念であることが浮かび上がってきたのです。
さらに、その「源は創造神にあって、創造神からそれが全空間に放射されている」というイメージも浮上してきました。
そこで、それを仮説として考えを進めることにしました。
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むろん、わかりづらいことはそのまま(ペンディング)にして進むことも、大切な聖書解読の知恵です。
やっている内に、他のところとの繋がりで、見えてくることもあります。
だが、私はここで、「いのち=エネルギー」という仮説を立てて進んでみることにしました。
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この仮説には、聖書理解を進めてくれるところがありました。
たとえば、近代物理学では、「エネルギーは物質と相互転換する」という事実を発見しています。
すると、聖書で言う「創造」は、「いのちというエネルギーを創造神が物質に転化させた」というような理解が可能になりました。
<加えて循環運動ももたらす>
そうみていくと、さらに、新しいアイデアも出てきました。
聖書の「いのち」という概念は、物理学でいうエネルギーを超えたものをもっていそうだ~というのがそれです。
いのちエネルギーは物質を創るだけでなく、それを循環運動させる力ををも持っているのでは・・・というわけです。
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人間の身体で言うと、諸器官は物質によってできています。
そしてそれらが組み合わさって、循環運動をすると、人間の身体は生命体になります。
この循環運動をも、いのちエネルギーはもたらす力を持っているのではないか、と考えられたのです。
実際、人の身体は循環運動をすると生きたものとして活動します。
循環運動が止むと死にます。
死ぬと諸器官は腐敗し始めて、バラバラになって消滅します。
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その循環運動をもたらす力をも「いのち」というエネルギーは持っているのではないか、とみられたわけです。
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<人間の血は「いのち」を含んで運搬する>
さて、そうしておいて人間の血を考えます。
それにも仮説を立てます。
人間の血は、この「いのちエネルギーを身体の諸器官に運搬し供与する液体」だと仮説します。
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この仮説は、我々が観察する医学的現象と結構符合します。
例えば、人間は血圧が水準以下になるとまもなく死にますよね。
血は栄養分をも運ぶと言われます。
だが、栄養分が細胞に運搬されなくなっても、人間は数日以上生きるのではないでしょうか。
けれども、血が循環しなくなると、人は速やかに死にます。
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血が循環しているかどうかをはかる基準が血圧です。
血圧が一定以下になると、人間は死んでいきます。
このことも、血には、諸器官の循環運動に直結する何かがあることを、示唆しています。
そして、その「何か」は「いのち」ではないか、という推察ができるのです。
<生活直感の歴史>
「血はいのちと重なっている」、ということを、人間は生活の中で直感してもいるように見えます。
契約を確証する手段は、前述したように、書名、押印、血判などです。
その中でも、血判は最も重大な決意を込めた確証の印です。
赤穂浪士でも、仇討ち参加者は血判を押しています。
これを破ったら死にましょう、という決意を血でもって表しているわけです。
血は最も強力な、契約の確証手段とされてきているのです。
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かくのごとくに、人々は、歴史の中で、「血といのちは重なっている」という直感をえ続けてきています。
<血にいのちエネルギーを渡すのはその人の霊>
もしそうだとしたら、血が運搬する「いのちエネルギー」は、どこからやってくるのでしょうね。
これにも鹿嶋は仮説を立てます。
いのちエネルギーは、「その人の霊から血に渡される」と考えます。
前に鹿嶋は、「いのちエネルギーの源は創造神にある」と仮設しましたよね。
そして、「それは創造神から放射されていて、人間の霊はそれを充電蓄積する」
~と仮設しました。
ここでは、「その霊に蓄積されたエネルギーを血は受け取る」と考えるわけです。
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すると、霊に蓄積されたいのちエネルギーが多いほど、血に受け渡されるエネルギーは多いことになるでしょう。
逆に、蓄積量が少ないほど、血に受け渡すいのちエネルギーは少なくなるわけです。
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では、その霊へのいのち充電度は、何によって決まるか。
これには、前に仮説を立てましたね。
「その意識が創造神の意識波動と共鳴しているほど大きい」がそれでした。
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すると、創造神の意識と霊がよく共鳴している人ほど、血に受け渡すいのちエネルギーも多くなる道理となります。
ならば、その人の身体も、循環運動が活発になる。
その人は活力を持って、健康になるでしょう。
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この仮説は、創造神信仰によって健康を取り戻した人が少なからずいる、という事例と符合しますね。
今回はこれくらいにしておきましょう。
(随想8. 人間の血は「いのちエネルギーエネルギー」を運ぶ?・・・・完)
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