KINGDOMとその原理を自覚しつつ聖書を読んでいくと、新しい疑問がわいてきます。
それは“創主のKINGDOMには、この地上に対応した場所があるのではないか?”というものです。
それは無数の劇場のあるような空間かも知れませんが、とにかくそういうものがあるのではないか、と感じる。
春平太は、聖書を見れば見るほど、そういう奥義があるのではないか、という思いに駆られます。
<イザヤが預言したこと>
たとえば、今や有名な「イザヤ書53章」の預言をみてみましょう。
「私たちの聞いたことを、誰が信じたか。
主の御腕は、誰に現れたのか。
彼は主の前に若枝のように芽生え、
砂漠の地から出る根のように育った。
彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
輝きもなく、
私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で病を知っていた。
人が顔を背けるほどにさげすまれ、
私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、創主に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、
私たちの背きの罪のために刺し通され、
私たちの咎(とが)のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちは癒された。
私たちはみな、羊のようにさまよい、
おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちの全ての咎を
彼に負わせた。」
これは預言者イザヤに示されたイエスのことだ、と現在されていまして、ほとんど定説になっています。
後にイエスが出現して、これはこのイエスのことを言っているに違いない、とみんな同意したわけです。

<それは王国で実現し、反復上映されている>
だけど、考えてみましょう。イザヤはイエスが出現する550年ほども前の人です。
その彼に、550年も先だって見せられた幻とは一体なんでしょうか?
従来、それは文字通り幻だとされてきています。
天使が見せたかどうかは別にして、それは“将来こういうことが起きるよ”という幻だ、と考える。
ところが、それだけではない、というもう一つの解釈の筋が春平太には出来そうに思えてなりません。
どういうことかというと、天の王国には、この地上世界と対応する空間があって、
地上に起きることの大部分は、王国の一部でも実際に起きているのではないか、というわけです。
たとえば、上記のイザヤ書53章に描かれていることは、この時すでに天で実現しているのではないか。
そして、天の王国では、これは一回起きたら終わりではないのではないか。
ちょうどビデオやDVDが繰り返し上映されているように、
この件は以後実現され続けているのではないか、と解したくなるのです。
すると、550年後にイエスが地上で行ったことは、天で上演され続けている事態を地にも降ろしたことになります。
そして、この物質世界では、事件は一回終わりまで起きたら、それでおしまいです。
だが、天の王国では、それはその後も持続的に上演中だというイメージです。

<「主の祈り」の不明点も明確化する>
「もう、ついていかれない、春平太さんには・・・」と言われる方もおいででしょうね。
しかし、物質世界と、天の創主王国という霊界とでは、これくらいの違いはあるかもしない、
とイメージしてみたらどうでしょうね。
物質界は「終わりのある世界」、霊界は「終わりのない世界」です。
ものごとが「終わる」というのは、物質界だけの特徴かも知れませんよ。
ともあれ、こう解することによって、従来漠然としていた聖書のなかの聖句が、
イメージくっきりになることもあります。
たとえば、“主の祈り”。
イエスが、弟子たちに「どう祈ったらいいか?」とたずねられたとき、
「こう祈りなさい」と教えているところです。
「天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
あなたの王国が来ますように。
あなたのみ旨が天で行われているように
地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧を、きょうもお与え下さい。
私たちの負い目をお許し下さい。
私たちも、負い目のある人たちを許しました。
私たちを試みに会わせないで、悪から救い出して下さい。
王国と、力と、栄光とは永遠にあなた様のものだからです。
アーメン」(マタイ伝、6章9~13節)
このなかの、たとえば「み旨が天で行われているように、地でも行われますように」は、
何を言っているか、漠然としたままで受けてきた人は多いのではないでしょうか。
この部分を、原典(ギリシャ語)に忠実に英訳した文は、こうなっています。
"Yours will be done on earth
as it is in heaven"
ここで、時制を見ますと、「創主のみ旨がこの地上でなされる」という部分は、
未来形になっています。
他方、「天の王国でなっている」というのは、現在形です。
現在形とは、すでに、実現していることを示しますよね。
さらに、それは過去も未来も含めて、永続していることを示すことも出来ます。イエスが
「アブラハムが生まれる前から私はすでにいたのだ」というときも(ヨハネ伝)、
" Before Ablaham was boen, I am"
と現在形で示されています。
ともあれ、「天の王国でなされている」は、「すでになっている」というニュアンスです。
そして「この地上でなされる」は、未来に起きることのニュアンスです。
これからすると、天の王国で事態が先に実現していることになります。
そして、それが反復上映、上演されていると解すると、
ここでイエスが教えていることがとてもはっきりしてきます。
彼は、「天ですでに実現しているものが、地上にも降りて実現されますように」と祈れ、
といっていることになるわけです。
そうでないと、なにいってるのか、漠然としたままにならざるを得ない聖句箇所ですね。

<「黙示録」での過去記述>
理屈っぽい話が続きますが、もう一つ見ておきましょう。
ここは、聖書解読のあり方を分ける、大きなポイントなのですから。
聖書の最後の最後の書物は『黙示録』です。
これはイエスの愛弟子ヨハネが与えられた、延々と続く幻を記録したもの、とされています。
幻を与えたのは天使です。それが、
「私(ヨハネ)が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれたみ使いの足もとに、
ひれ伏して拝もうとした」(黙示録、22章8節)
ーーの聖句でわかります。
さて、これも天使が描いて見せた単なる幻か、
あるいは、天の王国の一部ですでに実現している事態なのか、と考えることが出来ます。
そういう問題意識をもって読み返してみると、12章で次の聖句にぶつかります。
「また、巨大なしるしが天に現れた。一人の女が太陽を着て、月を足の下に踏み、
頭には、十二の☆の冠をかぶっていた。
この女は、身ごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声を上げた。
また、別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。
七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。
その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。
また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。
彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。
女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。
その子は創主のみもと、その御座に引き上げられた。」
(黙示録、12章1~5節)
黙示録には、解読困難な聖句が多いのですが、ここはマリアがイエスを生む場面に対応している、
というのがおおかたの見方です。竜はサタンです。
ここで、注目してください。この事態は、ヨハネが黙示を与えられる時点では、
この地上ですでに実現したことですよね。つまり、過去のことだ。
天使はここで、過去にヨハネが直接体験した事件を、わざわざ幻を作って示しているのでしょうか。
何か、しっくりこないですね。そもそもそんな必要があるでしょうか。
ところが、天ではすでに実現したことが、永続的に反復上映・上演されている、
ということになりますと、これは素直に理解できます。
天使は、それをヨハネに見せた、というわけです。
まだあります。
@ @ @
「自分の宝は、天(の王国)に蓄えなさい」
(マタイ伝、6章20節)
ーーーというイエスの教えもそうです。
これは、この世で富を、この地上でのためでなく、創主が喜ばれるように用いると、
天の王国ではそれに対応して、その行為が連続上演されるようになる、という解読になります。
この場合は、先に地上で起きたことに対して天で対応がなされるケースですね。
いずれにせよ、両者はこのように対応しているというイメージです。
すると黙示録に出てくる「いのちの書」もこう解読されます。
つまり、地上に対応して天で連続上演されているものが、個人個人に関してあるわけです。
ある人に関して上演されているすべてのデータが、その人の「いのちの書」の実体であるーーーと。
今回は、これくらいにしておきましょう。

それは“創主のKINGDOMには、この地上に対応した場所があるのではないか?”というものです。
それは無数の劇場のあるような空間かも知れませんが、とにかくそういうものがあるのではないか、と感じる。
春平太は、聖書を見れば見るほど、そういう奥義があるのではないか、という思いに駆られます。

<イザヤが預言したこと>
たとえば、今や有名な「イザヤ書53章」の預言をみてみましょう。
「私たちの聞いたことを、誰が信じたか。
主の御腕は、誰に現れたのか。
彼は主の前に若枝のように芽生え、
砂漠の地から出る根のように育った。
彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
輝きもなく、
私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で病を知っていた。
人が顔を背けるほどにさげすまれ、
私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、創主に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、
私たちの背きの罪のために刺し通され、
私たちの咎(とが)のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちは癒された。
私たちはみな、羊のようにさまよい、
おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちの全ての咎を
彼に負わせた。」
これは預言者イザヤに示されたイエスのことだ、と現在されていまして、ほとんど定説になっています。
後にイエスが出現して、これはこのイエスのことを言っているに違いない、とみんな同意したわけです。

<それは王国で実現し、反復上映されている>
だけど、考えてみましょう。イザヤはイエスが出現する550年ほども前の人です。
その彼に、550年も先だって見せられた幻とは一体なんでしょうか?
従来、それは文字通り幻だとされてきています。
天使が見せたかどうかは別にして、それは“将来こういうことが起きるよ”という幻だ、と考える。
ところが、それだけではない、というもう一つの解釈の筋が春平太には出来そうに思えてなりません。
どういうことかというと、天の王国には、この地上世界と対応する空間があって、
地上に起きることの大部分は、王国の一部でも実際に起きているのではないか、というわけです。
たとえば、上記のイザヤ書53章に描かれていることは、この時すでに天で実現しているのではないか。
そして、天の王国では、これは一回起きたら終わりではないのではないか。
ちょうどビデオやDVDが繰り返し上映されているように、
この件は以後実現され続けているのではないか、と解したくなるのです。
すると、550年後にイエスが地上で行ったことは、天で上演され続けている事態を地にも降ろしたことになります。
そして、この物質世界では、事件は一回終わりまで起きたら、それでおしまいです。
だが、天の王国では、それはその後も持続的に上演中だというイメージです。

<「主の祈り」の不明点も明確化する>
「もう、ついていかれない、春平太さんには・・・」と言われる方もおいででしょうね。
しかし、物質世界と、天の創主王国という霊界とでは、これくらいの違いはあるかもしない、
とイメージしてみたらどうでしょうね。
物質界は「終わりのある世界」、霊界は「終わりのない世界」です。
ものごとが「終わる」というのは、物質界だけの特徴かも知れませんよ。
ともあれ、こう解することによって、従来漠然としていた聖書のなかの聖句が、
イメージくっきりになることもあります。
たとえば、“主の祈り”。
イエスが、弟子たちに「どう祈ったらいいか?」とたずねられたとき、
「こう祈りなさい」と教えているところです。
「天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
あなたの王国が来ますように。
あなたのみ旨が天で行われているように
地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧を、きょうもお与え下さい。
私たちの負い目をお許し下さい。
私たちも、負い目のある人たちを許しました。
私たちを試みに会わせないで、悪から救い出して下さい。
王国と、力と、栄光とは永遠にあなた様のものだからです。
アーメン」(マタイ伝、6章9~13節)
このなかの、たとえば「み旨が天で行われているように、地でも行われますように」は、
何を言っているか、漠然としたままで受けてきた人は多いのではないでしょうか。
この部分を、原典(ギリシャ語)に忠実に英訳した文は、こうなっています。
"Yours will be done on earth
as it is in heaven"
ここで、時制を見ますと、「創主のみ旨がこの地上でなされる」という部分は、
未来形になっています。
他方、「天の王国でなっている」というのは、現在形です。
現在形とは、すでに、実現していることを示しますよね。
さらに、それは過去も未来も含めて、永続していることを示すことも出来ます。イエスが
「アブラハムが生まれる前から私はすでにいたのだ」というときも(ヨハネ伝)、
" Before Ablaham was boen, I am"
と現在形で示されています。
ともあれ、「天の王国でなされている」は、「すでになっている」というニュアンスです。
そして「この地上でなされる」は、未来に起きることのニュアンスです。
これからすると、天の王国で事態が先に実現していることになります。
そして、それが反復上映、上演されていると解すると、
ここでイエスが教えていることがとてもはっきりしてきます。
彼は、「天ですでに実現しているものが、地上にも降りて実現されますように」と祈れ、
といっていることになるわけです。
そうでないと、なにいってるのか、漠然としたままにならざるを得ない聖句箇所ですね。

<「黙示録」での過去記述>
理屈っぽい話が続きますが、もう一つ見ておきましょう。
ここは、聖書解読のあり方を分ける、大きなポイントなのですから。
聖書の最後の最後の書物は『黙示録』です。
これはイエスの愛弟子ヨハネが与えられた、延々と続く幻を記録したもの、とされています。
幻を与えたのは天使です。それが、
「私(ヨハネ)が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれたみ使いの足もとに、
ひれ伏して拝もうとした」(黙示録、22章8節)
ーーの聖句でわかります。
さて、これも天使が描いて見せた単なる幻か、
あるいは、天の王国の一部ですでに実現している事態なのか、と考えることが出来ます。
そういう問題意識をもって読み返してみると、12章で次の聖句にぶつかります。
「また、巨大なしるしが天に現れた。一人の女が太陽を着て、月を足の下に踏み、
頭には、十二の☆の冠をかぶっていた。
この女は、身ごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声を上げた。
また、別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。
七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。
その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。
また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。
彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。
女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。
その子は創主のみもと、その御座に引き上げられた。」
(黙示録、12章1~5節)
黙示録には、解読困難な聖句が多いのですが、ここはマリアがイエスを生む場面に対応している、
というのがおおかたの見方です。竜はサタンです。
ここで、注目してください。この事態は、ヨハネが黙示を与えられる時点では、
この地上ですでに実現したことですよね。つまり、過去のことだ。
天使はここで、過去にヨハネが直接体験した事件を、わざわざ幻を作って示しているのでしょうか。
何か、しっくりこないですね。そもそもそんな必要があるでしょうか。
ところが、天ではすでに実現したことが、永続的に反復上映・上演されている、
ということになりますと、これは素直に理解できます。
天使は、それをヨハネに見せた、というわけです。
まだあります。
@ @ @
「自分の宝は、天(の王国)に蓄えなさい」
(マタイ伝、6章20節)
ーーーというイエスの教えもそうです。
これは、この世で富を、この地上でのためでなく、創主が喜ばれるように用いると、
天の王国ではそれに対応して、その行為が連続上演されるようになる、という解読になります。
この場合は、先に地上で起きたことに対して天で対応がなされるケースですね。
いずれにせよ、両者はこのように対応しているというイメージです。
すると黙示録に出てくる「いのちの書」もこう解読されます。
つまり、地上に対応して天で連続上演されているものが、個人個人に関してあるわけです。
ある人に関して上演されているすべてのデータが、その人の「いのちの書」の実体であるーーーと。
今回は、これくらいにしておきましょう。

その通りですね。
キングダム原理からみていくと、聖書の論理は簡明ですねえ。
もしかしたら、これが聖書の真理かも?
我々はそれに気づいてこなかっただけかも?