前回、創造神が我が子に対して抱く計画と、被造物である人間に対して描く企画とはベルというか範疇が別である~といいました。
そしてそのことの理解を阻むのは「恵み」という言葉がわからないことによる~といいました。
今回はその「恵み」という平凡な日常用語が、聖書ではとても深い意味を秘めていることを示しましょう。
先に結論的なことを述べますと、この言葉の英語はグレースです。
そしてグレースとは「相手に何も求めることなく、ただ与えようとするだけの思い」です。
この意味するところを、現代日本語の「愛」~英語のラブ(love)ですね~ と照らし合わせながら示しましょう。
<愛欲とグレースの図>
図は、その全体像を一目でわかるようにしようと描いたものです。
<愛は精神的同一化>
先に理屈を考えますね。
人間ベースで考えますと、愛とは精神的に相手と同一化(同じになること)する心理作用です。
人間は、肉体的物理的には同一化できないけれど、心理的には出来るんですね。
自分の生んだ赤子が病で苦しむとき、母親は自分も苦しくなります。
注射を打たれるとき、母親のその場所も痛むという例が少なくないという。
これは母が精神的に我が子と同一化していることを示しています。
これが「愛している」状態です。
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人はある対象を愛すると、自分を相手に同化させようと欲しますし、同時に、相手も自分と同一化してくれることを欲します。
そうやって相手と(精神的に)一体化しようとするのです。
「愛は惜しみなく奪う」という文学的用語がありますが、これは相手に「自分の欲するものを与えて欲しい」という面の心情をクローズアップして述べた言葉です。
<母性愛>
そのうちで図に描いた「母性愛」とは、次のような愛です。
つまり「相手に求める思い」は、自分が認識している相手の能力によって左右されます。
赤子は行動能力がないことを、母親はわかっています。
だから、我が子に求めるものは小さいです。
ただし、それはゼロではなく、我が子が成長して行動能力を増すと共に大きくなります。
たとえば、我が子が男の子なら、成長するにつれて「こんな若者になって欲しい」と思う夢(要求)が生じます。
母親は、その期待に添うことを、息子に要求します。
熟年になって生活力を持ち、反対に自分の肉体に不自由が生じてくれば、「介護して欲しい」という思いも生じるでしょう。
だが、我が子が幼いときに母親が我が子に抱く「母性愛」においては「要求」はとても小さいです。
<異性愛>
対照的なのは、右側に描いている異性愛です。
こちらは身体的な性欲という激しいものを含んでいます。
人は異性を愛すると、自分も相手に同化しますが、相手にも同一化してくれること、一つになってくれること激しく求めます。
異性間でのそういう関係は相互独占でないとなかなか成立しがたいです。
故に、異性愛では相手に対し「自分に独占されて欲しい」という欲求も生じます。
それが嫉妬心をも派生し、傷害、殺人を産んだりもします。
異性愛は「相手への欲求」が大きい極です。
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人間の抱く種々の「愛」の感情は母性愛と異性愛という両極の間に位置づけられるとみていいでしょう。
<グレース>
図の左端にある「グレース」は、その「相手に求める所を全く持たない」「与えるだけの愛」です。
そんな愛は、全てに満ち足りていて欠けるところのない存在、創造神だけに可能になる愛です。
<図が示すもの>
以上を踏まえて、繰り返しも含めながら、図を説明しましょう。
この図の真ん中に描かれた横線~「左右に矢印を持った線分」~は人間の「愛」を示しています。
その下方に点線の矢印(右下がりの)が描かれていますね。
これといま述べた「両端に矢印を持った線分」との間の幅は、「その場所での愛」が相手に対して抱く要求の大きさを示しています。
右に行くほど幅は大きくなりますよね。
それは右に行くほど愛する相手に求めるものが大きくなることを示しています。
その最大のものが異性間の愛なのです。
男女の愛では、異性をむさぼり愛しますからね。
だからそれには特別に「愛欲」という文字があてられたりもします。
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反対に、左に行くほど、幅は狭くなり、愛する相手に求めるものは小さくなっていきます。
母性愛はその極地でしょう。
かといってそれは、ゼロにはなりません。
点線の左の端が縦になっているのは、そのことを示しています。
人間の愛の場合は、「相手への要求」は完全にゼロにはならないのですね。
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そして、その左の極のさらに左に「グレース(の愛)」があります。
これは、相手に何も求めず、ただ与えるだけという愛です。
この心理は、創造神(と聖霊と御子イエス)だけが注ぐことが可能な、いわば「天の愛」です。
<十字架上の父への祈り>
イエスは三年半にわたる宣教活動の中で、この「代償を求めない愛」~グレースの愛~を注ぎ続けました。
盲人の目を開き、足萎えを歩かせ、ライ病は手を触れてまでして癒やしました。
娘や息子が死んで嘆き悲しむ母親に、生き返らせてあげました。
それでいて、代価は一切求めなかった。
5000人の群衆に、パンと魚を出現させて食べさせた。
これも無償提供。
~もう信じがたい無償サービス、グレースの連発でした。
みんなあまりの不思議に、唯々おどろき感謝して受けるのみでした。
<十字架上の祈り>
ところがそのグレースがさらに劇的に表現される事件が起きました。
イエスが十字架刑で殺されるときのことです。
彼はその前に、すさまじい拷問と侮辱を受けました。
裁きの場から刑場に十字架を背負って歩かされる前にも、全身をむち打たれています。
ユダヤ教高僧に仕える従者たちに、つばきを吐きかけられもしています。
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そしてイエスは刑場で十字架につるされました。
そこでも、ユダヤ人の群衆は、罵倒します。
「お前、神の子だろ、自分の力で十字架から降りてみろ!」
「なにやってんだ、お前が父と呼んできた神さんはどうしてんだ!」~とユダヤ人大衆はののしりました。
彼らはイエスに、ダビデ王の時代のような黄金時代を再現してもらうことをと夢見てきたのでした。
なのにそのイエスは十字架につるされて無抵抗に殺されようとしている。
彼らは失望と憎悪を込めて、イエスを罵倒したのです。
他方、刑の実行係だったローマ兵士はというと、彼らは十字架の下でくじ引きゲームをしていました。
イエスの着ていた着物をだれがもらうかを、それで決めようとしていた。
イエスは彼らを罰しようと思えば出来るのです。
天使の軍団を呼んで火で焼き殺すなど、その気になれば容易なことでした。
呪い殺すこともやれば出来た。
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ところが、そこに予想もしない光景が展開されたのです。
そういう彼らのために、イエスは祈り始めたのです。
十字架につるされている状態で、彼らの罪の許しを創造神に願い始めた。
その時の言葉を、医師だったルカは、バイブルに記録しています。
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「父よ、彼らを許して上げて下さい。彼らは自分が何をしているかが
わからないのです」(ルカによる福音書、23章34節)
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この話を教会の説教で聞いて、もうそれだけでイエスを信じるようになった人を鹿嶋は数多く知っています。
あるいは、バイブルを読んでいて、この箇所に胸を打たれて即座に信仰者になった人もいます。
そのときの感動を教会で泣いて告白する(これを証しと言います)人も、鹿嶋は幾人か見ました。
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このイエスの祈りには、病の癒しなどを超えた、究極のグレースの愛が凝縮されていたのです。
彼らはこの話を聞いただけで、一発で福音をアクセプト(受容)してしまった。
「ああ・・・、これは,人間には出来ないことだ。この人は神の子だ・・・」。
これは比類無くダイナミックなグレースの露呈でありました。
(=愛欲とグレース= 完)
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