「稲盛『哲学』と聖書の思想」第20回です。
ここで聖書との比較をしておきましょう。
その前に、六代煩悩を音で暗記しておきましょう。
「トン・ジン・チ・マン・ギ・ケン」
意味は、Vol.11に記しましたよね。
今回は、人の食欲を貧(トン)にまで至らしめないための智慧をめぐって、仏教と聖書の教えを比較してみます。
<貧(トン)への知恵は仏教も聖書も持っている>
この知恵は、仏教も聖書ももっています。
仏教の方法は修行です。
聖書の方法は、「汝の隣人を愛せよ」という創造主の命令を守ることです。
方法は違えども、どちらも「実践すれば貧という煩悩に到らない」ように自らを治める効果を持っています。
だが、仏教では治める方法を「修行」として、手取り足取り教えてくれます。
出家すれば、更に縛って導いてくれます。
ところが聖書は命令を与えて修行は無しです。
こういう命令を守るには、精神的な力がいりますよね。
なのに修行スケジュールで縛ってくれない。
代わりに聖書では、命令を守る力は究極的には創り主によって与えられるものだ。
それを与えられなさい、と教えます。
創り主とは、現代ではイエスが昇天して送ってくれた聖霊です。
その力とは聖霊の命令で働く天使です。
これに働いてもらいなさい、という。
だけど、こういうものって一般人の目には見えないよね。
「聖霊が、天使が働いてくれた!」というのも霊感によって感触するものだよね。
だから、具体的に「布施をしなさい」と導いてくれる仏教よりも、遙か難しいのです。
<聖書がねらう賞は大きい>
しかし、聖書特有の利点もあります。
それは成功した場合の賞が大きいと言うことです。
単に、「この世を煩悩少なく送れる」だけでなく、死んだ後のある時(最後の審判の時)に、天の創主王国に入れられる、という。この幸福は永遠の幸福です。聖書では賞がそういう大がかりなものなのです。
これを得るには、創主の力への信頼と、それをベースにした根強い聖句(みことばといいます)の探求および祈りが必要、となります。
<聖書にも「修行」の要素あり>
祈りも、全霊を込めた、かつ、持続的なものでなければなりません。
我々は祈りというと、どこか神聖なところで、手を合わせて「ウ~ン」と念じるものだと思いがちです。
「風邪を引いたときに飲む風邪薬」みたいにしか考えない。
だが聖書を解読すると、どうもそうではないようです。
つまり、祈りには(創主の助けも必要だが)修行的意識の要素も大きいのです。
聖句探求だってそうです。
聖句はとても多義的だからです。
その一つの意味をさっとつかんで、わかったといっているんでは足りません。
だが、聖書はそういう誤解にも、とても入りやすいように出来ているんですね。
<仏教は具体的でわかり易い>
仏教の方は、そういう危険が少ないです。
創造主とか聖霊とか天使とか言った、五感で認知できないものの働きを理屈に入れない。
ただ、自力の修行だけで考えるから、認識・理解しやすい。
稲盛さんは、自らのために、そして企業という現実の中で従業員と共に修行をするために、限定的でわかりやすい仏教を援用されているのですね。
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