鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

「ページを開こう!」

2004年11月16日 | 春平太チャペル
<今週の賛美歌>
「いつくしみ深き」讃美歌 312番
↑クリックすると音楽の鳴るページに飛びます。
http://promises.cool.ne.jp/newpraisemidi.shtml


 

<今週の説教> 

(聖句)
「ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちより心が開けていた。彼らはパウロたちの話に熱心に耳を傾け、はたしてメッセージが真理であるかどうか、確かめようと、日々聖書の言葉を調べた」(使徒行伝、17章11節)

       @      @      @

 「私は料理素材としてニンニクを使うことを薦めません。これは呪いの食物だと聖書にかかれているそうです。カインが弟を殺したとき、その血の流れた土地に生えてきた呪いの植物だと。それで、世界のベジタリアンにも、これを食べない人が多いそうです」

 料理に長けたある女性から、こういう話を聞いたことがあります。春平太はちょうどそのとき聖書を持っていましたので、話が終わった後、「そんな記述は聖書にはありませんよ」と、お伝えしました。その箇所を読んで聞かせてさしあげました。

      @      @      @

 カインとアベルは、アダムとイブの間に最初に生まれた男の子です。弟のアベルは「羊を飼う者となり、カインは土を耕す者になった」と聖書にはあります(創世記、4章2節)。それである時期に創主に献げものをするのですが、兄の献げものには創主は目を留められませんでした。理由は、収穫物の中の最良のものを献げなかったから、という主旨が記されています。

 初子の中の、それも最良の羊を献げた弟アベルのものに創主が目を留められたのを「ねたんだ」アベルは、弟を殺します。それで、すんでいた土地を追い出され「エデンの東」、ノデの地に住み着いた、とあります。が、「弟の血が流れた土地から、にんにくが生えてきた」などという記述はありません。

 おそらく、父、母のアダムとイブが、エデンの園で、創主に対して罪を犯したときに、「土地にイバラとアザミを生えさせる」という創主の言葉が出たことと、混同しているのでしょう。

 だが、彼女によれば、このニンニクの話を本当だと思っている人は、結構いるそうです。どうしてそうなるのでしょうか。ここには、相応の信憑性を感じさせる話が仕掛けられています。一つは「世界のベジタリアンもニンニクは食べない」というメッセージです。「はたしてそうかな?」という気持ちを抱いても、そこにこういうメッセージをかませられると、「そうか、それならホントだろう」と簡単に信じ込む傾向が人にはあるのです。

 もう一つは、「聖書にある」というメッセージでしょう。聖書というのは、それなりに、何か深い真理がかかれている、というイメージを人々に与えています。だから、「聖書に・・」と一発かまされると、人々はコロンと信じてしまいます。実際、こういうカマセでもって、大学生や大学院生や弁護士、医師までに自分の世界観を信じさせ、被害甚大な社会犯罪を犯させた宗教教団の教祖も、20世紀末の日本に出ています。

      @      @      @

 では、こうした情報被害から身を守る方法はないでしょうか。あります。確かめればいいのです。世界のベジタリアンの食事嗜好を調べるのは大変ですが、聖書の記述を調べるのは、簡単です。本のページを開けばいいのです。たったそれだけのことです。

      @      @      @

 上に掲げました今週の聖句、使徒行伝の一節には、そういう弊害から抜け出せていないテサロニケのユダヤ人と、抜け出せているベレヤのユダヤ人との対照が記されています。ユダヤ人は、旧約聖書をよく学んでいる民です。そこへパウロという使徒がきて、彼らが教わってきていない、新しい聖書解釈をメッセージしました。具体的には、旧約聖書をイエスのことを証言している本として、解説したのです。

 すると、テサロニケの人は、「それが自分たちが教わってきていないものだ」というだけの理由で、話している者を襲いました。聖書に改めて当たるということなく、ただただ怒って、パウロたちを襲いました。

 ベレヤの人たちは、「果たしてそう解読できるのか、と聖書の言葉そのものに改めて触れ始め」ました。この人たちの中から、パウロの話を真理だと判断する人が多く出た、と「使徒行伝」の著者ルカは記録しています。

 しかし、信じたとか信じなかったとかいう結果をいう前に、大事なことがあります。テサロニケ人には、身の危険をも顧みず伝えようとしてきている、パウロたちの新しい聖書解読を「検討する」という選択の道が開かれませんでした。ベレヤ人は、開きました。

 もちろん、世の中には、危険なメッセージもあります。それには、耳を傾けない方が安全、というケースも多々あるでしょう。だが、聖書は2000年にわたって、世界最大の宗教を形成し続けてきた、歴史の雨風に打たれるなかで残ってきた古典です。信頼できます。

 そして、上記の話からもわかりますように、人々の思考や態度に基底のところから多くの影響を与え続けています。聖書文化圏の人口が世界の30%で量的に最大というだけではありません。いま、この圏の文化が、世界をリードしています。指導的な国、人物の大半が、この文化圏から出ています。そして、国際化の波はとどまることなさそうです。

 そうしたなかにあって、聖書の教えだと聞いても、聖書そのもので確かめない姿勢、ライフスタイルには、むしろ危険が大きいのです。今述べた「ニンニクの呪い」の知恵などは、創世記の4章をちょっと開けばすぐに確かめられる話なのです。上記の、宗教教団の危険も、聖書をちょっと開いて、確かめたら回避できた話なのです。

 幸運にも、危険に巻き込まれなかった若者も、依然として、びくびくしながら暮らしていかねばならない事には、変わりないでしょう。しかも、これからますます、そういう時代になります。

      @      @      @

 聖書を開きましょう。ページを開けばいいのです。大冊で、どこを開けばいいかわからない、かもしれませんね。そういうときには「コンコルダンス」(聖句対照表)で、カインでもアベルでも引けばいいです。すると、その章が示されます。

 書店にもありますし、インターネットに無料で引く事の出来る「コンコルダンス」もあります。
さあ、みなさん、「聖句(聖書の中の言葉)」そのものに触れましょう。恐れず、勇気を持って、ページを開きましょう。
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チャーチ・教会のサービス

2004年11月14日 | 各カテゴリーの説明

 『鹿嶋春平太チャーチ』にようこそ、歓迎いたします。
チャーチは教会です。教会は、様々なサービスを提供します。
サービスは奉仕で、英語ではミニストリー(ministry)ともいいます。

<聖書思想の基礎知識>

 その一つは、聖書に関する基礎知識を提供することです。教会には、初めて聖書を学ぶ段階の人、初心者が常にやってきます。その方々のために、聖書の基礎知識提供をします。

 イエスの弟子たちによって開始された初代教会では、人々は小グループに分かれ、信徒の一人の家で聖書を調べました。礼拝も、そこで行うことが多かったようです。これを「家の教会(House Church)」といいます。

 今日でも、この方式の流れをくむ教会では、礼拝の前に、小グループに分かれてバイブルスタディをしています。米国南部のバプティスト派の教会では、これを日曜学校(サンデイスクール)と呼んでいます。鹿嶋春平太チャーチでも、これをこのカテゴリーで提供しています。

 参考文献は、拙著『聖書の論理が世界を動かす』『誰もが聖書を読むために』『神とゴッドはどう違うか』(以上、新潮選書)『聖書のことがよくわかる本』(中経出版)です。

<KINGDOM原理からの聖書解読>

 聖書は、膨大なメッセージ内容を持っていて、解読されていないところは、いつの時代になっても残っているでしょう。ということは、いつの時代にも、従来になかった面を解き明かす、新しい解読が出うる、ということです。

 新しい解読は、ーーーそれが、根底原理を踏み外すものでない限りーーー聖書に内蔵されている宝物を、これまでにない形で明かします。そういう最先端の聖書解読を、「天の王国」の原理からしてみよう、というのがこのカテゴリーです。

<春平太チャペル>

 教会では、もちろん、礼拝サービスも提供します。それをしようというのが、このカテゴリーです。礼拝の二本柱は、賛美歌による創主賛美と、説教メッセージです。当面、「今週のメッセージ」を記入していきます。

 近い将来、賛美歌音楽や、メッセージの音と映像による提供が出来ればいいな、と思っています。まずは、文字による礼拝におつきあい下さい。

<キリスト教活動の歴史>

 聖書を教典としたキリスト教活動(運動)は、二千年前から今日まで、絶えることなく続いています。そして、今日では、聖書文化圏が世界人口の三分の一を占める、世界最大の宗教活動になりました。

 その過程で、様々な運動様式、教派が出現してきています。

 聖書のメッセージ内容は膨大です。人間には、そのすべてを網羅するように活動を展開する力がありません。そこで、結果的に様々な教派が現れるのです。

 それらの生成過程や特徴を、運動の発展史の中で示そうというのが、このカテゴリーです。ここでの参考文献は、拙著『キリスト教のことがおもしろいほどわかる本』(中経出版)です。

<ヨハネ伝解読>

 実際に、聖書における書物の解読を示そうというカテゴリーです。「聖書の中の聖書」といわれる『ヨハネによる福音書』の解読を連載していきます。聖書のその箇所を開いて参照しながらお読みいただきますと、理解度は10倍になります。

<ゲスト掲示板>

 鹿嶋春平太チャーチを訪問して下さった方に、ご意見ご感想を書いていただくカテゴリーです。

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聖書メッセージは膨大な情報量をもつ

2004年11月14日 | 聖書思想の基礎知識
前回の続きです。聖書は、創主が存在すること、それがどのような存在かと言うこと、人間とどうかかわっているかと言うこと、などについての膨大な情報をもっています。その膨大さは、ひとつには、それが預言者の霊感によって受信されたものを含めていることから来ています。

 たとえば、創造主がいるという前提で、人間が体験などを元に論理的に様々に思考したとします。その成果を集大成した本を考えましょう。哲学者、倫理家、詩人、小説家、歴史家などが知恵をこらして書いたものを集めたとします。それでも、聖書に比べたら、はるかに簡素で範囲・内容ともに乏しいものとなるでしょう。見えない世界の事に関しては、人間の知的・論理的思考には限度があるのです。

 その状況のなかに聖書という書物があるわけです。そこには、論理的思考をする前に、霊感によってメッセージを受信した(と信じる)ものが言葉で記録されています。とにかく、そういうものが、人類社会には存在しているわけです。

 そしてその内容は、結果的に深さにおいても、広さにおいても膨大なものとなっています。この2000年間にわたって、世界の数多くの神(聖書)学校や神父、牧師、信徒などによって、その内容解読の努力が積み重ねてこられましたが、最終的解明に至ってはいません。今も、探求は果てしなく続いています。

 けれども、その過程で、解明されてきた知恵だけみても、その豊かさに計り知れないものがあります。それを概観して、見えない世界の真理をこの書物の中に見出そう、とする人が出るのは不思議ではありません。そして、見えない世界を探求する情報源として、聖書以上のものは少ないと思われます。
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ゴッドは神でなく創主(創造主)

2004年11月14日 | 聖書思想の基礎知識
 前回、聖書は、唯一者たる創造主がいるという有創造主論に立っている、といいました。創造主は、英語でゴッド、ヘブライ語でエロヒム、韓国語ではハナニムです。

 日本語の神は、創造主に限った意味を持っておりませんので、ゴッドの訳語としては甚だしく不適格です。理解の正確さのために、春平太はこれをゴッド、または「つくりぬし」と言うことにします。

 「つくりぬし」は漢字で書くと創造主または創主です。短い方がいいので、創主と書くことにします。そして、これは「つくりぬし」と読んだり、音節を短くしたいときには「そうしゅ」と音読みにすることもできるとしましょう。
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様々な神イメージ

2004年11月14日 | 聖書思想の基礎知識
 人間は、通常、五感覚でもって、物的な存在のみを認識することが出来ます。けれども人間はまた、宗教的存在ともいわれます。目に見えない存在である神を、いろいろイメージします。代表的なイメージの仕方は、次のようではないかと思われます。

1.無神論(物質主義)
  神なんてものはいない、存在するのは物質のみという見解です。人間の精神活動も、物的な存在である素粒子や原子、分子の作用によって起きているにすぎないと見るわけです。英語ではatheism(materialism)といいます。

2.多神論
  神はいるけれど、多種様々だよ、という見解です。ギリシャや東洋に多いです。八百万(やおよろず)の神、というのもその一種です。英語ではpolytheismです。

3.汎神論
  すべての存在が神だ、という見解で、インドに多く見られるものです。宇宙も、動物も、牛も花もみな神とみます。花とも会話できると考え、これすなわち神と会話したと意識します。英語では、pantheismといいます。

4.有創造主論
  自分以外の万物を造った神がいて、これが至高にして唯一の神である、という見解です。自分以外の「すべて」を造ったというのですから、唯一者でないと筋が通りません。二者いたら、ケンカになります。
 そしてこの神は、人間と同じように人格(神格というべきか?)をもち、知性も感情も意志も持つと考えます。
 また、この見解では、他に目に見えない霊的な存在がいるにしてもそれは被造霊(造られた霊)ということになります。英語ではtheismで、聖書はこの見解にたっている書物です。
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創造主、ゴッドの存在が前提

2004年11月13日 | 聖書思想の基礎知識
 聖書はキリスト教の教典です。キリスト教の教え(教理)は、この教典の中に納められています。ですから、その教えを知るには、聖書の思想を知ればよいことになります。

 聖書は、旧約聖書と新約聖書からなっています。
旧約聖書は、自らについて、万物の創造者(主)、ゴッドから人間に与えられたメッセージだとしています。それを霊感の豊かな人が受信して、言葉に記録したものだといいます。この人を預言者といいます。創主のメッセージを「言葉」として「預かる」「者」という意味で、先のことを予言する「予」言者とは違います。

 そういうわけですから、聖書の出発点は、この創造主が存在するという認識にあります。そして、聖書では、その神が世界で最大の権威と力を持った神だというのです。果たして、そういう神様が存在するでしょうか?
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ゲスト掲示板

2004年11月13日 | ゲスト掲示板
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KINGDOM原理とは?

2004年11月13日 | KINGDOM原理からの聖書解読

 このカテゴリーでは、聖書の論理を、新しい視点から捉えてみようと思います。具体的には、「天の王国」の論理から理解しようとします。

 聖書は、こういう王国世界が、我々の住む宇宙を超えたところに、存在するという大前提で出来ている本なのです。聖書が、我々人間に希望を与え、楽しくさせてくれる源がここにあります。

 聖書は自らを、そういう王国の王である創造主、ゴッドからのメッセージであるとしています。

      @      @      @

 邦訳聖書で「天国」とか「御国」と訳されている場合の、英語は通常“kingdom of heaven"です。これは直訳すると、「天の王国」です。

 kingは王、domは領域、領地です。天国とは、正確にいえば、「王の統治する領国」なのです。

 そこでの「王(King)」は、創造主ゴッド(GOD)です。(その王国の相続権を与えられているのが、創主の独り子、イエス、というのが聖書の大原則です)

      @      @      @

 民主国、共和国に生まれすむ我々にとって、王国は独特の存在です。

 民主国における領地の所有者は、国民です。対して、王国では王です。

 民主国での法は、人民が話し合い、利害を調整しあって造ります。対して、王国では「王から出た言葉」が法になります。

 王は一方的・独裁的に政治を行います。だが、その目的は人民の幸福にあり、その幸福の大きいことが王の栄誉になります。

      @      @      @

 天の王国の王である創造主は、全知全能です。だから民の幸福を完全に実現できている存在です。

 人民に当たるのは、当初は天使でした。天使は、その幸福を願う「全知の王」の言葉(法)に従って生きるのが、最良の幸福の道でした。

 後に、創主は我々の今住む地上に、人間を造ります。地上も本質的には天の王国の一部であります。だからここでも、天の王国の法に沿って生きるのが、最大の幸福の道となります。

<KINGDOM原理を人間に知らせようとする本が聖書>

 これが、KINGDOM原理です。それから見ると、聖書というのは、この原理を人間に知らせよう、とする本といえます。

 そして「知らされて従ったものには、王(創主)の子になる資格を与えよう」という意図もとに送られたメッセージを記録した本、見ることも出来ます。 

 ですから、聖書は、「天の王国のロイヤルファミリー(王室家族)になるためのノウハウ」を記した本ということも出来ます。

 このカテゴリーでは、その観点から聖書の論理を、考えていきましょう。
 
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Vol.10 『この世を創ったのは霊イエスだった! (1章10節)』』

2004年11月13日 | ヨハネ伝解読






ヨハネ神学独特のイエス理解をもうひとつあげておきましょう。
同じ1章ですが、10節に飛びます。




<世はこの方によって創られたのに・・・>


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「・・・・世はこの方によってつくられたのに、この方を知らなかった」
  (1章10節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ヨハネはここでこの世を創造したのは霊イエスなのだ、といっています。
彼の霊感がそう感知したのでしょう。

通常の理解では、父なる創造神とされていますので、これはもう独特です。




<「創世記」の難解聖句も解決>

この把握は、「創世記」における次の聖句への疑問も解消してくれます。

          
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「創造主は『われわれに似るように、われわれの形に人を作ろう。・・・・・・』
と仰せられた」(創世記、1章26節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
          


これは聖書を初めから読み始めるとすぐにぶつかる難解聖句です。
まず「われわれ」とはなにか? がわからない。

創造主お一人でなく「われわれ」と複数なのです。

創造主が複数となれば、父・子・聖霊の三者しか考えられません。
そこで読者は苦し紛れにそういう風に解釈します。

だが、それですと「我々の姿に似せて」がおかしくなります。
とくに父なる創造神は空間的にも無限の広がりを持った無限者です。
空間的無限者は「形がありません」ので、
「我々の姿に似せて」が意味をなさなくなってしまうのです。

そこでまた苦し紛れをする。
「我々に似せる姿」とは、その性格や本性だとしてしまうのです。

だけど、「姿」を「性格や本性という抽象的なものにするのは無理がありますよね。

百歩譲って、そういうことにしても、
「人間の性格や本性」がどういう風に創造神に似るんでしょうかね。

この解釈は無理なのです。

+++

ところが、この世を創造したのは実は霊イエスだった、とすると
ここはぱらりと解けていきます。

姿は外形的な姿と素直にとれるようになります。
霊イエスは、今の人間のような姿を前もって持っていたと考えられます。
人間はそれに似せて作られた、と素直にイメージできます。

では「われわれ」という複数になるのはどう理解したらいいか?
それは「天使」だと考えたらいいのです。
霊イエスには天使が付き従っていた、としたらいい。
イエスに天使が付き従うのは、聖書では自然なことです。




<アブラハムが産まれる以前から・・・>

霊イエスがこの世を創った、というヨハネの理解は、
ヨハネ伝の次の聖句も明確にしてくれます。

          
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「諸君に真理を告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのだよ」
(8章58節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
          


これはユダヤ人たちと論争したときに、イエスの口から出た言葉として、
ヨハネが記録しているものです。

アブラハムはユダヤ民族の始祖です。
イエスはその2000年後にこの世に人の姿で生まれています。

ところが「そのアブラハムより前から自分は存在している」
とイエスは言ってのけています。

ユダヤ教の長老その他のユダヤ人は、頭にきて石を投げつけようとする
・・・そういう場面でのイエスの宣言です。

これも「この世を創ったのは霊イエスだとすると、すっきり理解できる台詞です。




<これもヨハネの疑問への解答か?>

もしかしたら、ヨハネにはまず、このイエスの言葉が記憶にあったのかもしれません。
そして、これは具体的に何を意味しているのか・・・という疑問があった。

同時にまた、前記した創世記1章26節の「我々に似せて・・・」
という言葉への疑問もあった。

これらの答えを思案していて、あるとき、
「この世を創ったのは霊イエスだとすると、つながる!」
という霊感がきたのかも知れません。神学的霊感ですね。

当面、春平太にはそのヨハネ理解が一番ぴったりきています。







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Vol.9 『「生き霊」のイメージ(1章1節)』

2004年11月13日 | ヨハネ伝解読







さて懸案の問題に入ります。

創造霊と共にいた「ことば」がどうして創造主という「霊」になるのか?

つづめていえば「ことばがどうして霊になるのか」「ヨハネはこの点どう考えていたのか」
ということです。





<言葉は「思い」を含む>

まず言葉一般について考えてみます。

人間が話す言葉って何でしょう?
それは「思い」を含んでいます。

我々は言葉を使う際には、なにか、「思い」ないしは「イメージ」を持ちますよね。
石という言葉を発する際には、まず、道ばたに転がっている硬い小さな個体のようなものを「思って」いる。
そうイメージしています。

そのイメージを人に伝えたいとき我々は「イ・シ」という音を発します。
この音はそのイメージにつけた記号です。
「石」という文字も同じく記号です。

つまり、言葉とは「思いに記号がついたもの」です。

+++

この記号と思いとの対応関係は、国によって異なります。
日本では道ばたに転がっている硬い小さな個体のようなイメージに、「イ・シ」という音や「石」という文字を対応させています。

これがアメリカでは、対応する記号が「ストーン」という音になったり、「stone」という文字になっています。

 このように民族や文化によって対応「記号」は違いますが、言葉が「思いやイメージ」を含んでいることは確かです。





<「思い」の深いのが「念」>

ちなみに思いの深いものを「念」と言います。
さらにその「念」にイメージの中で筋道づけたものを「理念」といいます。
「理」は「筋道」という意味です。

がともあれ「言葉が常に思いを含んでいる」ことは確かです。
言葉が発せられたということは、念が発せられたことでもあります。

言葉は念でもあるのです。
そしてヨハネは言葉のもつこの側面に着目していたと思われます。





<霊は「思い」を持つ意識体>

そして思い(意識)を発する本体は意識体です。
その意識体が霊です。

創造霊も意識体であって、思いを発します。
天使や人間といった造霊もまた意識体であって思いを発します。





<霊から出た「思い」が独立した霊となるという思想>

 結論的なことを先にいってしまうと、ヨハネは
「意識体から思い(意識)が出るとき、出た思いが独立した意識体になることもある」
という考えを持っていたと思われます。

こういう思想は人間世界には結構あるようです。
たとえば日本の時代劇に、敵に見立てた小さな人形を柱に貼り付けて、
「死ね!」「死ね!」と釘を打ち付けたりする場面があります。

昔実際にそういうことが良くされたようですが、あれもやはり、
そういう「思い」が独立した意識体(すなわち霊)となって、
その相手のところに行って健康を害する可能性を期待しているからでしょう。

どうも人間社会には意識体が強烈に念を込めると、そ
れが意識体として独立して動き出すことがあるという思想があるようです。





<それらしき実例もある>

 また、それは思想だけでもないという経験を春平太はしております。
鹿嶋は現役教師時代、ゼミナールというのを長年続けていました。 
3~4年次にわたる2年間の小グループ講座なので、学生と個人的にも親しくなります。

彼らの中には霊感の開けたものもおりました。 霊が見えるという学生も二人いた。 
一人は男子、一人は女子です。 
彼らの体験談にはとても作り話と思えないものが多く、興味を持ってよく耳を傾けました。

女子学生の方が卒業して会社に就職しました。
その彼女が何年かして先輩の女性上司社員から攻撃を受けるようになりました。

先輩はどうしてもやめさせたくて、何かに憑かれたように毎日のように攻撃したそうです。
そうたなかであるときから女性上司の背後に憎しみに満ちた顔の「生き霊(いきりょう)」が
みえるようになった」と彼女はいっていました。

結局彼女はその上司のいじめ攻撃に耐えれきれず退社しました。

「生き霊」は現実にあるかも知れないのです。


+++

ヨハネはそういうイメージで創造霊とそこから出た「ことば」(思い、念)を
とらえたのかもしれません。

創造霊という意識体から深い思い(意識)が出たとき、それが独立した意識体になったとの霊感をえた。
その意識体が霊イエスであったとのイメージを得たのではないかと思われます。

まとめましょう。

~「思い」は「ことば」でもあるから、創造主から出た念をヨハネは「ことば」と表現した。
そしてそれが独立の意識体(霊)となった。「霊イエス」になったと解した。

そしてその霊は創造神から「出た」ものだから(創られたのではなく)、
創造神と同じく創造霊だったのだ。ヨハネはそうと述べていると鹿嶋は解します。

ちなみに創造霊という意識体の意識は常に「聖なる」意識、ということに聖書ではなっています。
霊イエスも創造霊ですから、父なる創造神と同じく「聖なる霊体」ということになります。







<「生き霊イメージ」のプレゼント>

 意識体から出た「ロゴス」が独立した生き霊(意識体)になって行動する、
というイメージは、ヨハネ伝にとても明確なイメージを与えてくれます。

イエスのこういう聖句もあります

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「わたしが諸君に話したことばは、霊であり、またいのちだよ」
(6章63節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここでの「ことばは霊であり」は、なかなかわかりにくい漠然としたところです。
だが、これは~

「イエスという意識体から出たことばは、イエスから分離独立した意識体となる。
すなわち独立の生き霊になって活動する」

~とイメージすると、突然理解がはっきりしてきます。

もう一つイエスの言葉をあげましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人を裁くものがあるよ。
わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのだよ」
(12章48節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これもわかりにくいでしょう。
比喩表現として解するとある程度処理できそうでもあります。
すなわち「最後の審判でさばかれるとき、イエスの語ったことばが法となる」というのを、
「ことばが裁く」と比喩的に述べたとするわけです。

だけどこれは「生き霊イメージ」を用いると、もっと理解が鮮明になります。
すなわち
 ~「イエスの話したことばが独立した生き霊となっていて、
その霊がイエスを拒んだ人に有罪宣言する」
~ともっと直接的にイメージできるのです。





<言霊(ことだま)の思想>

一般思想としても、「人間の口から出る言葉には霊がこもっている」というものがあります。
それを表現するのが「言霊(ことだま)」という語です。

分離独立した意識体になるかどうかはともかくとして、人間の言葉には霊がこもっている。
そして人の言葉の場合は、とりわけ「念」が強いと、
それは発する人から分離して独立の意識体(霊)になる、という思想にもつながっている。

それが時代劇における「死ね!死ね!」だった、と位置づけると、
全体を体系的にイメージできるのではないか、と思われます。







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Vol.8 『「ことば」はロゴス(1章1節)』

2004年11月13日 | ヨハネ伝解読



前回までの考察では、今ひとつはっきりしないところが残ります。

「ことば」がどうして「霊」になるのかということです。

もう一度聖句をみてみましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=

「「・・・・・・・ ことばは創造主と共にあった。 
ことばは(創造)神であった」)

(1章1節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まいったなぁ~。
言葉がどうして霊になるのか?

その問題に入る前に脇道に入っておきましょう。
先に用語についての留意点をみておきます。


                   


<創造主関連の言葉>

ヨハネ伝に記された「ことば」という語は英語の聖書ではWordと大文字で始めた語になっています。

ふつうの「言葉」はwordと小文字ではじめますので、
それと区別するために「ことば」は使われていそうです。

聖書では、創造神(創造主といってもいい)から出た言葉を大文字で始めています。
こうして人間の言葉と区別するのです。

+++

聖書では他にも、創造主に関わることを大文字で書いて一般の語と区別している例が見られます。

同じ神でも創造神はGodです。
この世では他にも「神」とされる霊がいろいろあります。 それらはgod ないしはgodsです。
「神々」といった感覚ですね。


                  



<言(げん)はどうか?>

ところが日本語には、頭文字を大文字で書くというような表記法はありません。
だから、そこで創造主関連の「ことば」と、一般用語の「言葉」とを区別する表記ができません。

そこで創造神の言葉を「言」と書いて「ことば」と読ませている例もあります。
さらにこれを耳で聞いても区別できるようい「げん」と読ませて、
音においても区別しているケースもあります。

だが、これもしっくりきません。
言(げん)という語は、日本語としてはなじみが薄いからでしょう。




                  



<原語はロゴス>

ヨハネはヨハネ伝をギリシャ語で書いています。
そしてヨハネ伝冒頭の「ことば」をヨハネはギリシャ語の「ロゴス(logos)」という語で記しています。
この言葉は「概念、意味、論理、説明、理由、思想、原語、理性、理法」等々の
多様な意味を持っています。

ロゴスという言葉も我々日本人にはなじみが薄いのですが、
いっそのことこれを使うという手もあるかな、と春平太は思います。

「初めにロゴスがあった。 ロゴスは創造主と共にあった。 ロゴスは創造主であった」といった具合にですね。

「言(げん)」と同様になじみ薄いのですが、どうせ薄いのなら、
ロゴスの方がはっきりしていいようにおもうのです。
 
通常は「ことば」でいって、特に一般語と混同して欲しくないときにはロゴスを使うという、折衷案も悪くはありません。

+++

しかし、こうしたことはヨハネの考えを考究するのには、
さほど大きな要素にはなりません。

だが日本人が聖書をやる場合にはこういう用語上の問題がある。
このことには留意しておいていいように思います。


                    


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Vol.7 『はじめに”言葉”があった(1章1節)』

2004年11月13日 | ヨハネ伝解読

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 =聖句=

 「初めにことばがあった。ことば創造主と共にあった。ことば創造神であった」(1章1節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                  



ヨハネ伝はこの一文から始まっています。
もう、はなからヨハネ神学そのものですね。

参るなぁ~。 本当に弱ります。
何言ってるか、さっぱりわからない。



                  



<創造主(神)は時間的無限者>

そこでまず比較的わかりやすいところから・・・。

創造主は「万物の創造主」でしょう。
後にイエスが「父なる神」という創造主です。

創造主は霊的存在です。 だから創造霊といってもいい。
創造霊は「自分以外の万物」を創造しています。
すべてのものを創造しているというのなら、創造霊は無限の過去から存在していることになります。

つまり、存在の初めがない。
もし存在し初めたときがあったら、それ以前のものは「わたしが創った」といいがたいでしょう。
だから、永遠の過去から存在しているのです。

そして、同様のことは未来についてもいえますので、
創造霊は永遠の未来に渡って存在することになる。

つまり、創造霊は時間的に無限者なのですね。



                  


<「ことば」はイエスらしい>

では「ことば」はどうか?
文脈からして、どうもこの「ことば」はイエスのことを言っていそうです。
2節でこの「ことば」をうけて「この方は」といっていることもそれを示唆しています。

さらにヨハネはこの方をイエスとして話を展開していきます。
だからこれはイエスなのです。

むろん、この段階では地上に来る前の、「霊としてのイエス」です。

ではそのことばが「はじめにあった」とはどういう意味か?
イエスには存在の初めがあるということでしょう。

そして「そのイエスはまず初めには、父なる創造霊とともにいた」
~とヨハネはいっていそうです。



                  



<霊としてのイエスは創造霊>


さらに「ことば(イエス)もまた創造神(霊)であった」とヨハネはいいます。

う~ん、また難しいですね。

ここでヨハネが言わんとしていることは~
このことば(イエス)は、創られた存在ではない、
創造霊から「出た」存在だ~ということではないでしょうか。

聖書は、「霊にも創造霊と造霊がある」という思想です。

創造主によって「創られた霊」は「被造霊」です。

聖書では具体的には、天使と人間が登場します。

しかし、初めに創造主とともにおられた「ことば(霊イエス)」は「創られた」霊ではない。
父なる創造神と同じく創造霊である。

~そのことをヨハネは「言葉は(創造)神であった」と表現しているようです。

まだ考究すべき所はあります・・・。
次回以降で考えましょう。



                  





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Vol.6 『イエス・言葉・肉体の相互関係』

2004年11月13日 | ヨハネ伝解読



ヨハネの意識の中で「つながりの予感」を与えるものはもうひとつありました。
「イエスのことば」に関するものがそれでした。


                  


イエスは後にこうも言っています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=

「諸君がわたしのことばにとどまるなら、諸君はわたしの本当の(変わらざる)弟子になるよ」
(8章31節)

「諸君がわたしにとどまり、わたしの言葉が諸君のうちにとどまるなら、
わたしに求めるものは、何でもかなえられるよ」
(15章7節)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


~これは前回あげた次の聖句と関係がありそうです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、
わたしのうちにとどまり、わたしもそのもののうちにとどまるよ」(6章56節)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

つまり前回(6章56節)では「イエスの血を飲み肉を食べる」と
その人は「イエスのうちにとどまる」、し、
かつ「イエスもその人の中にとどまる」といっています。

今回の聖句(8章31節)では「弟子たちがイエスの『言葉』にとどまる」といい、
また(15章7節)では、「イエスの『言葉』が弟子たちのうちにとどまる」
といっています。                  


                  


もしかしたら「イエスのうちに」というのは、
より具体的に言うと「イエスの言葉のうちに」ということではないのか。

また、そういうことなら、「イエス」とはより詳細には
「イエスの言葉」にイコールではないのか。

端的には、「イエスとはその言葉」ではないのか・・・・。

そしてその言葉がヨハネたち12人のうちにとどまるには、
「イエスの肉を食べ血を飲まねばならない」ということになれば、
一体イエスの言葉とその身体とはどういう関係にあることになるのか? 



                  



ヨハネの中で、これらの疑問はぐるぐる回っていたのではないでしょうか。

・・・そしてあるとき啓示が来た。
ヨハネの霊感にそれが受信されました。

「イエスの身体は言葉が変化したものではないのか!」と。

その言葉はもちろん人間の発する言葉ではありません。
創造主から出た言葉です。

そして、その言葉が変化したのがイエスのこの世での肉体だとしたら・・・・。
ならば、イエスの身体を槍で刺したら「血と水が出た」というのもありうることだ。

そうだ、この地上ではイエスは言葉が変化して人の姿をとられていたのだ!

・・・ここまできて、ヨハネはイエスの伝記を書き始めることが出来たのではないでしょうか?

彼の最初の一文は~

「はじめに言葉があった」(1章1節)

~でした。



                  





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Vol.5 『最後まで残った疑問』

2004年11月13日 | ヨハネ伝解読


 自らの神学を含めてイエスの伝記を書こうとしていたヨハネには、
論理的に解明できない疑問が残っていました。

「イエスのからだは何だったろうか?」がそれです。

人間の身体とは違う、という確信はありました。
その最大の手がかりは、十字架上のイエスの身体に起きたことでした。


                  


<血と水が出た!>

 それをヨハネ伝19章に彼は記しています。

~イエスが十字架にかけられたときの場面です。
ヨハネはその下に、イエスの生母マリアとともにいます。
死んでいくイエスをじっとみています。

死んだイエスの脇腹を、ローマの兵士が槍で突き刺します。
「するとすぐに血と水が」出ます!
ヨハネ伝で彼は、その事件を記してすぐに、次の文を追加しています。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=

「それを観た者が証言をしているのである。あなた方が信じるためである。
彼が言っていることは真実である。彼自らが、自分の言っていることを真実だと知っているのだ」
(19章35節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 ここで「それを観た者」とか「彼」とは、著者であるヨハネ自身です。
それをこういう文体で書いているのです。

ヨハネ伝には他にも、著者自らを第三人称で書いたところがあります。
「イエスが愛した弟子」などがそれで、ヨハネはこれで自分のことを言っています。

それにしても、これほどに重ね重ね「私は自ら観たのだ、これは真実(不変の事実)なのだ・・・」
と言うところは、ヨハネが書いたものには他にありません。
見ようによっては異例にくどい。どうしてでしょうね。

ヨハネには、この「血と水が出た」という事件は重要な事実だったからです。
彼にはこの事態は「イエスの身体は人間のそれとは違う」ことを示唆していました。
そしてヨハネはそのなかに福音の神髄を予感したのです。

だから彼は、それについての自らの認識を確かめるように書いています。
「あれは夢でも幻想でもない。間違いなく血と水が出たのをみたのだ、
自分は間違いなくみたのだ」
~と繰り返しています。

そこにはまた、この箇所を軽く読み飛ばしたりしないように、いう願いもあったでしょう。
これを「まさか・・・」との気持ちをまじえて読んでいたのでは、
もう福音の核心は明かせないのだよ、という思いもあったのでしょう。



                  


<イエスの肉を食べ血を飲むものは>

そしてその事実は、イエスが語った一連の教えとつながりがあるはずだ。
ヨハネはそう予感していました。 教えとは~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=

「人の子(イエス)の肉を食べ、血を飲まなければ、諸君のうちにいのちはないよ」(6章53節)

「私の肉を食べ、私の血を飲むものは、永遠のいのちを持つよ。私は終わりの日にその人をよみがえらせるよ」(6章54節)

「わたしの肉はまことの(不変の・・・鹿嶋、註)食物であり、血はまことの飲み物だからだよ」(6章55節)

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもそのもののうちにとどまるよ」(6章56節)

「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのだよ」(6章57節)

「これは天から下ってきたパンだよ。諸君の先祖が食べて死んだようなものではない。このパンを食べる者は永遠に生きるのだよ」(6章58節)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~でした。

ヨハネは考えました。
イエスのこの一連の言葉と、十字架上で確認した「イエスの身体は人間の肉体と違う」ということとは
つながりがあるはずだ。

人間の身体と違うから、イエスはこういうことがいえるはずだ。

そういう予感はありましたが、ヨハネにはそのつながりを知的に見出すことがなかなか出来ませんでした。

そのことは、ヨハネが伝記執筆に踏み出すのに壁になっていたのでした。




                  



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Vol.4『ヨハネ伝には神学がある』

2004年11月13日 | ヨハネ伝解読




 ヨハネが書く事実は自ら体験したこと
~これは、彼の福音書にも独自の特質を産み出しています。

伝記記述の中に、神学がちりばめられていること、がそれです。



                  


<神学とは?>


神学とは「聖書の語句の間に秘められている論理体系を浮上させる知的作業」です。
英語ではtheology, これは学問科学でのセオリー(theory: 理論)の語のもとになっています。

核心ある事実情報があると、それを手がかりに推論を大胆に進めていくことができます。
自信を持って論理的思考が展開できるのですね。

で、かれはそれをした。それ故「ヨハネ伝には神学がある」とも言われています。 
ヨハネの展開した神学論理だから、ヨハネ神学という言葉も現れています。




                  




<取材情報の限界>


念のため申し添えておきますと、事実情報が取材によるものである場合には、そうはいきません。
そこにはどうしても一定の漠然さが伴うのです。

すると、著者としては「そういう事実があった(らしい)」ということまでが、
言える目一杯にのところとなります。

それを踏まえて「ならばこうであろう」と確信を持って推論するは難しいのですね。 
平たく言えば、「さらに一段と踏み込んで書く」ことは困難なのですね。



                  



<聖書の中の聖書>

ヨハネ伝には非常に有名な聖句が記されています。
次のものは「聖書の中の聖書」という人がいるくらい有名な聖句です。


                         
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=

「創造主は、そのひとり子を賜ったほどに、この世を愛された。
それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである」(3章16節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
          


でもよく見るとこれは観察したり取材したりして得られる情報ではありません。
こんな証言するひとはいませんよね。

これはヨハネが、福音に秘められていると洞察した論理です。

彼が直接体験した事柄を踏まえて洞察した、彼の神学理論なのです。



                  





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