Sightsong

自縄自縛日記

ウルトラマンの新しい映画

2008-09-16 01:17:31 | アート・映画

息子と、バスに乗って『大決戦!超ウルトラ8兄弟』を観に行った。

多くの30代、40代の日本人男性にとって、ウルトラマンは特別な存在であったに違いない。『ウルトラQ』は置いておいても、『ウルトラマン』が1966年、とりあえずひと段落した『ウルトラマンレオ』が1974年、ちょっと復活した『ウルトラマン80』が1980年である。『80』を物心ついてから観たかもしれない世代も、30代になっている計算だ。

そこからウルトラシリーズは作られず、テレビシリーズでの復活は1996年の『ウルトラマンティガ』であった。このころ既に社会人となっていた自分にとっては、新作などほとんど意識外、紛い物のようにしかおもっていなかった(見てもいないのに)。改めて息子といっしょに観始めたのは、2001年の『ウルトラマンコスモス』だった。

『コスモス』は、今観てもいい意味で異色作だとおもう。怪獣と闘いはするが、最後には無害な存在にする光線を浴びせ、共生の道を選び続ける。思想的にも、ウルトラシリーズが舵を切ったのだと感じていた。しかしそのためか、次に続く『ウルトラマンネクサス』はひたすら暗い作品となり(『ウルトラセブン』が大人向けを狙って成功したのを意識したに違いない)、低迷した。原点回帰を目指した『ウルトラマンマックス』『ウルトラマンメビウス』は明るく、勧善懲悪にとどまらない良い作品だとおもう。

今回の新作映画は、メビウスが登場するものとして2作目にあたる。特徴は、とにかく古いウルトラマンたちを、主演俳優とともに登場させていることだ。2作とも、初代マン=ハヤタ、セブン=モロボシ・ダン、新マン(古いファンはジャックなどとは呼ばないのだ)=郷秀樹、エース=北斗星司、がそのまま歳をとっているのを見ると、なんだか奇妙な気分に襲われてしまう。

それだけではない。前作でもちらりとだけ出ていたが、『マン』のアキコ隊員、『セブン』のアンヌ、『新マン』のアキちゃん(元の作品では途中で亡くなる設定)、『エース』の南夕子(元の作品では途中で月に帰る設定)が、それぞれのウルトラマンと夫婦となっている。もう自分もいい歳なので怒らないが、アンヌがダンと永遠に結ばれないからこそ、哀しさが胸にこみ上げるわけなのだ。『セブン』最終回のシルエットのシーンは忘れられないし、『レオ』でもダンがアンヌと再会しながらもすれ違う話があった。・・・などと言っても、たぶん製作側も、そんなファンの気持ちくらいわかった上でそうしたのだろうな、とおもうことにする。

『タロウ』役の篠田三郎が登場しないのは、もうウルトラマン役はやりたくないからだろう、と邪推するがどうだろう。『レオ』はもともとウルトラ兄弟ではない。『80』は、『マックス』にも登場したので、いつか再登場してもいいはずだ。

それにしても後ろ向きな、とは言ってはならない。テレビでも映画でも、普段はひとりでのみ戦うのに、兄弟が集まる回があると、それだけで興奮し、お祭りのような気分になったのだ。実際に、スクリーンに兄弟が揃って立つのをみると、なぜか涙腺がゆるむ。これほど何十年も物語を受け継いでいるシリーズはそうあるまい。他には『サザエさん』と、『ドラえもん』と、『仮面ライダー』(これは、新しい作品に1号やV3なんかは出ていないのだろうな)と、『ゲゲゲの鬼太郎』と、・・・あと何かあったか。

変身シーン(片手を前に突き出して大きくなるシーン)がいまいちオリジナルに似ていないのはご愛嬌だとして、初代マンの顔が、たしか13話まで使われたラバーのマスクを再現しているのも、大人をくすぐる仕掛けだ(子どもはあれを見て、何でひとりだけ顔に皺があるのかと不思議におもうかもしれない)。

しかし、ここまでくすぐるなら、昔の手作り感を狙ってほしいものだ。複雑でスピーディな空中戦シーンなどはCGならではだが(昔のは、ウルトラマンが空中で回転すると、それにあわせて雲も回転していた)、ちょっとCG臭さが目立ちすぎている。もっとも、いまやそれをやろうとすると、きっと大変な時間と労力とオカネがかかるに違いない。

なんにしても、くすぐられすぎて、まともな判断がくだせない映画だが、ウルトラの血が流れている大人にはおすすめだ。もちろん、希望に満ちすぎるくらい満ちあふれているので、子どもにも(笑)。

●参考
『怪獣と美術』 貴重な成田亨の作品
怪獣は反体制のシンボルだった