アントニオ・ネグリ『未来派左翼 グローバル民主主義の可能性をさぐる』(ラフ・バルボラ・シェルジ編、廣瀬純訳、NHK出版、2008年)は、ネグリの(実現しなかった)来日にあわせてか、上巻のみが先に出ていた。下巻を時間を置いて読んだ。
上巻で感じた違和感は、ネグリが<共>、<マルチチュード>を標榜しながらも、それらが組織化したところにしか改革の力を認めていないのではないか、ということだった。実際に、下巻でも、革新体制による上からの断行を必要なものと考えているようだ。しかし一方では、将来的な運動と形のあり方を、<ソヴィエト>(勿論、ソ連のことではない)と<インターネット>に置いている。前者が組織化だとして、後者は多様なボトムアップの力である(さまざまな読み替えも可能だろう)。<インターネット>自体が、それを利用する個と、それを媒体としたネットワークの力の両方を意味するものであろうから、前者と後者とは別々の要素ではない。
ヨーロッパを思索の中心におくネグリにとって、中国をどう捉えるかについては手を焼くテーマのように見える。ネグリによれば、1989年の天安門事件において、中国はITや認知労働といった<もうひとつの近代>ではなく、米国型の資本主義を選んだのだと解釈される。デイヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』でも大きく取り上げられていた、資本吸い上げ装置化している中国に関しては、一方でそれが様々な意味で管理下にあるということが大きな特徴だが、ここでネグリの言うような米国型なのかどうかについては考える余地があるだろう。
面白いのは、中国社会に浸透しているネットワークについての指摘だ。
「中国人たちによれば共産党は、「タコ」と「リゾーム」という二つの形象が重なり合ってできている。中国共産党は富を吸い上げるという意味ではタコであり、エネルギーを国中に配分するという意味ではリゾームだというわけです。
(略) 中国共産党内部での批判の自由に関して、「誰がどんな批判をしても、必ず守ってくれる人がいる」と言う人がいつもいました。この物言いは、この国が儒教的な時代遅れの専制政治の国だと告白するものでも、マフィアのような臆病者のご都合主義からくるものでもありません。ここにあるのはむしろ、中国文化の本質的な要素のひとつなのです。それは、家族関係を含めたさまざまな人間関係をそれとして認識し、客観的な目で見なければならないという考え方です。「私はいつも、私とつながりのあるあらゆる人々を代表して物を言っているのだ」。」
下巻において何度も強調されるのは、認知労働を確立することにより、人間らしい生活様式を保証させ、新たな公共空間をつくりだすことなどだ。(この実現に向けた絶えざる運動のあり方について、違和感を覚えていたわけである。)
認知労働の概念は、そう言われれば(自分も認知労働者であるから)、非常に重要なものだとおもえる。たとえば<フロー型>から<ストック型>への社会や生活の転換などという考えも、認知の確立なくしては難しいわけだ。ここでは、認知労働について、いくつかおもしろい指摘がある。
○かつての抽象化された労働のように、時間単位に分けることは不可能。
○労働する者とはつねに疲労する者のことであり、剰余価値を生産する者のことである。
○労働による価値形成は、それにともなう時間が搾取されることによってではなく、認知労働の創り出す時間が搾取されることによって行われる。
○労働は昔からイノベーションの源であり、人間活動の別称であった。すると、労働が人間の活動であり、<生>そのものであるという、認知労働から生じる条件は、特別な考えではないことになる。
ただし、こういった<生>のあり方を、どのように現実のものにしていくかについては、わかりやすい処方箋が与えられているわけではない。<共>、<マルチチュード>、<組織化>といっても抽象論に過ぎない。ここは、多様なプロセスを通じてのみ考えていくしかないということなのだろう。
「マルチチュードの行動のしかたは、権力の奪取を目指す革命的プロレタリアートのそれとは違います。マルチチュードは群蜂であって、知的な特異性たちからなるひとつの主体です。」
「ここで重要なのは、<共>を発見するということです。われわれの議論そのものもまた、このあたりで、マルチチュードについての話から<共>についての話へと方向転換し、さまざまな特異性からなる関係を<共>のなかに据えるという作業に着手しなければなりません。」
●参考 アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(上)