Sightsong

自縄自縛日記

江戸川放水路の泥干潟

2008-09-17 23:12:52 | 環境・自然

ウルトラマンの映画を観たついでに、江戸川放水路に面した妙典公園で昼ごはんを食べ、川沿いの干潟を歩いた。

江戸川放水路は、大正時代に江戸川から東京湾へのショートカットとして掘られたものだ。当初は塩水が逆流しないよう固定堰で仕切られていたが、増水時の排水をよくするため、1957年に、現在の稼動堰と行徳橋がつくられた(市川市『発見・市川の自然』、2006年)。したがって、浦安から東京湾に注ぐ川を旧江戸川と呼ぶが、このあたりのひとたちは単に江戸川と呼んでいる。

江戸川放水路沿いでは、天気もよく、釣りをしているひとが多い。このあたりには泥干潟が残っていて、特に東西線の鉄橋より東京湾側の一部には、波消しのための杭と蛇籠が置いてあって、有明海のムツゴロウに似たトビハゼを護る仕組になっている。この「トビハゼ護岸」まで、葦原の脇の干潟を歩いてみた。

泥干潟は、見渡す限り冗談みたいにカニだらけだ。ちょっと近づくと、揃ってササッと穴に姿を隠す。特にびっしりと泥団子を作っているコメツキガニだろうか、これはほとんど近づけない。ほとんどの大きなカニは、目が潜望鏡のようになったヤマトオサガニのようだ。

しかし、肝心のトビハゼがまったく見当たらない。あっいたと思ってしばらくファインダー越しに観察していたが、正体見たり枯れ尾花、ただの枝だった。産卵期は6-8月、観察できるのは4-10月だということなのだが・・・。

ほんらい、東京湾では、この江戸川放水路と行徳野鳥観察舎のなかの新浜湖に棲息しているらしい。また、盤洲干潟の小櫃川河口の泥干潟には、条件は悪くないはずなのに棲み続けないことが謎とされている。(市川市・東邦大学東京湾生態系研究センター『干潟ウォッチングフィールドガイド』、2007年)

こんど機会があれば、放水路の東岸を歩いてみようとおもう。


びっしりの砂団子の中に潜むコメツキガニ Pentax K2DMD、M100mmF4、Venus400、ラボプリント


牡蠣の殻とフジツボ Pentax K2DMD、M100mmF4、Venus400、ラボプリント


トビハゼ護岸のなかはカニのイボイボ Pentax K2DMD、M100mmF4、Venus400、ラボプリント


ヤマトオサガニ Pentax K2DMD、M100mmF4、Venus400、ラボプリント

●参考
○三番瀬 (千葉県浦安市~市川市~船橋市)
盤洲干潟 (千葉県木更津市)
○泡瀬干潟 (沖縄県沖縄市)


アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(下)

2008-09-17 00:58:16 | 政治

アントニオ・ネグリ『未来派左翼 グローバル民主主義の可能性をさぐる』(ラフ・バルボラ・シェルジ編、廣瀬純訳、NHK出版、2008年)は、ネグリの(実現しなかった)来日にあわせてか、上巻のみが先に出ていた。下巻を時間を置いて読んだ。

上巻で感じた違和感は、ネグリが<共>、<マルチチュード>を標榜しながらも、それらが組織化したところにしか改革の力を認めていないのではないか、ということだった。実際に、下巻でも、革新体制による上からの断行を必要なものと考えているようだ。しかし一方では、将来的な運動と形のあり方を、<ソヴィエト>(勿論、ソ連のことではない)と<インターネット>に置いている。前者が組織化だとして、後者は多様なボトムアップの力である(さまざまな読み替えも可能だろう)。<インターネット>自体が、それを利用する個と、それを媒体としたネットワークの力の両方を意味するものであろうから、前者と後者とは別々の要素ではない。

ヨーロッパを思索の中心におくネグリにとって、中国をどう捉えるかについては手を焼くテーマのように見える。ネグリによれば、1989年の天安門事件において、中国はITや認知労働といった<もうひとつの近代>ではなく、米国型の資本主義を選んだのだと解釈される。デイヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』でも大きく取り上げられていた、資本吸い上げ装置化している中国に関しては、一方でそれが様々な意味で管理下にあるということが大きな特徴だが、ここでネグリの言うような米国型なのかどうかについては考える余地があるだろう。

面白いのは、中国社会に浸透しているネットワークについての指摘だ。

「中国人たちによれば共産党は、「タコ」と「リゾーム」という二つの形象が重なり合ってできている。中国共産党は富を吸い上げるという意味ではタコであり、エネルギーを国中に配分するという意味ではリゾームだというわけです。
(略) 中国共産党内部での批判の自由に関して、「誰がどんな批判をしても、必ず守ってくれる人がいる」と言う人がいつもいました。この物言いは、この国が儒教的な時代遅れの専制政治の国だと告白するものでも、マフィアのような臆病者のご都合主義からくるものでもありません。ここにあるのはむしろ、中国文化の本質的な要素のひとつなのです。それは、家族関係を含めたさまざまな人間関係をそれとして認識し、客観的な目で見なければならないという考え方です。「私はいつも、私とつながりのあるあらゆる人々を代表して物を言っているのだ」。」

下巻において何度も強調されるのは、認知労働を確立することにより、人間らしい生活様式を保証させ、新たな公共空間をつくりだすことなどだ。(この実現に向けた絶えざる運動のあり方について、違和感を覚えていたわけである。)

認知労働の概念は、そう言われれば(自分も認知労働者であるから)、非常に重要なものだとおもえる。たとえば<フロー型>から<ストック型>への社会や生活の転換などという考えも、認知の確立なくしては難しいわけだ。ここでは、認知労働について、いくつかおもしろい指摘がある。

○かつての抽象化された労働のように、時間単位に分けることは不可能。
○労働する者とはつねに疲労する者のことであり、剰余価値を生産する者のことである。
○労働による価値形成は、それにともなう時間が搾取されることによってではなく、認知労働の創り出す時間が搾取されることによって行われる。
○労働は昔からイノベーションの源であり、人間活動の別称であった。すると、労働が人間の活動であり、<生>そのものであるという、認知労働から生じる条件は、特別な考えではないことになる。

ただし、こういった<生>のあり方を、どのように現実のものにしていくかについては、わかりやすい処方箋が与えられているわけではない。<共>、<マルチチュード>、<組織化>といっても抽象論に過ぎない。ここは、多様なプロセスを通じてのみ考えていくしかないということなのだろう。

「マルチチュードの行動のしかたは、権力の奪取を目指す革命的プロレタリアートのそれとは違います。マルチチュードは群蜂であって、知的な特異性たちからなるひとつの主体です。」
「ここで重要なのは、<共>を発見するということです。われわれの議論そのものもまた、このあたりで、マルチチュードについての話から<共>についての話へと方向転換し、さまざまな特異性からなる関係を<共>のなかに据えるという作業に着手しなければなりません。」

●参考 アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(上)