Sightsong

自縄自縛日記

浦安・行徳から東京へのアクセス史 『水に囲まれたまち』

2008-09-06 21:19:18 | 関東

浦安市教育委員会が1996年にまとめた報告書『水に囲まれたまち』が面白い。旧江戸川沿いにある浦安の昔からの中心地、それから行徳あたりは、かつて、非常に東京都の行き来が不便な場所だった。そのため船便が発達していたのだが、それが陸運に取って代わられる様子がとてもよくわかる資料である。

主な水運のルートは、旧江戸川の当代島・島尻対岸から深川や日本橋あたりまで、東西に横断するものだった。これまで、明治初期までの「行徳船」しか知らなかったが、本報告書では、その後に登場する蒸気船の栄枯盛衰を描いている。


浦安市教育委員会『水に囲まれたまち』より作成

1877年から1919年まで運行した蒸気船の代表格は、内国通運の「通運丸」だった。この内国通運は、いまの日本通運の前身だ。しかし、鉄道の普及や同業者との過当競争などにより、航路と船員を東京通船に引き継ぐことになる。その鉄道こそ現在のJR総武線であった。地下鉄東西線は、その後、宅地化の推進にもっぱら貢献したのだということがわかる。

東京への定期船ではなく、向こう岸の江戸川区までの「渡し」には、堀江の渡し、浦安の渡し、当代島の渡しの3つがあったらしい。これを廃止に追い込むのは、1940年に架けられた浦安橋だった。いまだ、江戸川上流の矢切の渡しのように残っているとすれば風流に違いないが、現在も相当船の行き来が激しく、復活など無理だろう。

「通運丸」は、船体の真ん中左右に、半円形の水かきがついている、典型的な蒸気船の形だった。乗組員は船長以下13名、客席は等級にわけられていたそうだ。

「板の間にゴザが敷いてあるので履物を脱ぐ。上、中、下等の三種に等級がわかれていて、上等は舳先、下等はエンジンの近く、中等は艪の方である。・・・機関部のそばに狭い部屋があり、そこに会計さんという船長に次ぐ地位の船員がいて、事務をとったり弁当やラムネや駄菓子や佃煮を売ったり、もろもろのサービス業務を一切する。」

この報告書がユニークなのは、浦安や行徳に建設されなかった・通らなかった鉄道についてもまとめていることだ。たとえば、東西線を西船橋から延長して千葉ニュータウンを経由し将来の成田空港に連絡する計画があった。しかし、1972年、「成田新幹線」計画が持ち上がったため採用されず、一方で「成田新幹線」計画も頓挫している。

また、総武線が浦安・行徳を通過する計画もあった、とする伝承があるという。ここでは、あまりにもその計画が不自然であるから、全国に存在する「鉄道忌避」伝承の域を出ないものと結論付けている。確かに、「あの鉄道はあそこを通るはずだったのが住民運動のために潰れた」なんていう噂話はあちこちで聞くものであり、とても興味深い。


東京への起点 Pentax LX、FA★24mmF2、Velvia 100、ダイレクトプリント

●参考
PENTAX FA★200mm/f2.8 で撮る旧江戸川
行徳船の終点
いまは20分、昔は3~6時間