筑紫哲也さんが亡くなった。これを書いているいま、テレビの『NEWS23』で、昔から最近までの氏の発言がいくつも流されている。「少数者」であることを怖れないこと、「沖縄」にこだわることはそれに通じること、・・・。至極真っ当な発言者がひとり居なくなったことは悲しい。
宮城康博『沖縄ラプソディ <地方自治の本旨>を求めて』(御茶の水書房、2008年)を読む。
ブログ『なごなぐ雑記』(>> リンク)を時々読んではいたが、そのブログ主(=本書の著者)が、名護市の住民投票を牽引した中心のひとりであることを知ったのはごく最近のことだ。本書の編集者に教えてもらったからだったか、たまたま気がついたのか、よく覚えていないが。
名護市の住民投票(1997年)は、辺野古の新たな米軍基地に対して、政府の暴力的なローラー作戦にも関わらず「NO」の民意を示した、画期的なものであったとされる。勿論私もそう思っている。しかしその<民意>に反し、その後、<民>が選ぶ沖縄県知事や名護市長は、<民>の意思を尊重する者であったわけではない。山口県岩国市でも、同様の状況が生じている。
この<ねじれ>に伴うさまざまなかたちを、著者は、「住民自治」と「団体自治」との違いによって浮かび上がらせている。後者には、「お上至上意識」も、「諦念」も、「不安」も、関連しているに違いない。それらの意識を生み出している背景には、カネや権力を直接的に用いた大きな暴力がある。本書は、それらの具体的なありようを提示する。転じて、市民の意思の実現に向けた自治のプロセスを、読者と一緒に考えるかたちで示している。本がナマのプロセスであるという点で、広く読まれるべきものだとおもった。
それにしても、資料編として収められている『名護市総合計画・基本構想』(1973年)は感動的な代物である。所得格差是正のために持続可能でなく非可逆的な工業開発・産業構造転換・社会構造転換を語ることの愚を明確に説き、農村漁業の発展を中心に据えるものだ。1973年にしてこのビジョン、驚くべきだ。その後の名護は・・・?とのみ外部から(皮肉として)問うことは、ここでは、さまざまな意味で愚かな行いとなる。