昨日日帰りで北海道に行ってきたので、道中、高橋哲哉『戦後責任論』(講談社学術文庫、2005年)を読み続けた。もちろん、頭の片隅には、例の、自ら戯画化されたような歴史修正主義者の醜い姿がある。
(ところで、昔から、飛行機が高度を下げるときが大の苦手で、絶対に耳が痛くなる。唾を呑み込んだり欠伸をしてみたりと懸命の努力をするのだが、駄目な時は駄目だ。いい方法はないだろうか。)
本書では、頻繁かつ執拗に日本の戦争責任を回避しようとする歴史修正主義に対して、歴史の検証によってではなく(もちろんそれを前提にして)、私たちの精神のありようを考えることによって、抗しようとしている。重きを置くもの、それは国境を跨る他者との関係性であり、応答可能性(responsibility)としての責任であり、自ら(日本人)のアイデンティティ確立のみを優先することの欺瞞である。
ここでの論考は、「なぜ直接加害したわけでもなく戦争体験もない自分たちが責任を負わなければならないのか」、「日本軍はよかれと思ってやったのではないのか」、「他の国も酷いことをしているのになぜ日本ばかり責められるのか」、といった、素朴であり、だからこそ蔓延している問いに答えを見出そうとしている。当然ながら、そのベクトルは、歴史修正主義者のそれとは全く正反対だ。
著者は言う。戦争被害者に対して、もういい加減にしてほしいなど反応することは、「トラウマ記憶」に対する無理解であって、さらに過去や喪の作業を一方的に終わらせることは記憶の抹消工作に加担することである、と。そして、過去に向き合い続け(無数の声がいまだ発せられている)、罪の裁きを行うことは、報復とは反対の、<赦し>と同じ側にあるのだ、と。
「ここに剥き出しになっているのはなんでしょうか。植民地化された朝鮮半島その他の地域を「全部日本人社会にしようとした」ことを、「仁愛を施すこと」として、日本人の「平等志向」や「お人好し」から出た善政として怪しまない底なしのナルシシズム。他民族の社会を「全部日本人社会」にすることが民族性の抹殺、文化的エスノサイド(民族絶滅)にほかならないことをまったく理解できないレイシズム。「皇民化」政策を推進した当時の支配層となんら変わらないメンタリティ。」
「ここで求められるのは、いかに苦しくても過去を想起し、それにジャッジメント(判断)を加えて、過去に対する批判的な距離を作り出していくことです。侵略の過去を認めること、兵士もまた加害者であった事実を認めることへの猛烈な抵抗を解除するためには、この種の徹底操作が必要なのです。過去に何があったかを勇気をもって直視し、その過去に対して、自らの責任で批判的判断をくだすこと。このプロセスを回避して、過去の支配を断ち切る「喪」の作業、いいかえれば「哀悼」はけっして成り立たないでしょう。」
ここで、なぜ過去の罪に対して現在の自分たちが<責任>を負うべきなのかが見えてくる。<責任>とはいま私たちが断罪されるということよりは、無数の声に対して<応答>していくこと、として見るべきだという考えが貫かれているようだ。<応答>には、現在のまなざしが含まれている、ということだ。そして<応答>とは、人格を持つ人間との関係性であって、決して<中国>や<米国>といった抽象的な存在に対するものではない。
「日本のようにかつて植民地帝国として異民族支配を行い、少数民族を圧迫、「同化」し、その結果として大規模な民族移動を引き起こしたような国においては、マジョリティ(民族的多数派)のナショナリズムはもはや「健全」ではありえない。(略) それは必然的に暴力を孕み、排外主義を孕んでしまう、ということです。「国民の正史を立ち上げる」という自由主義史観の主張が、たとえば在日韓国・朝鮮人の人たちにどれほどの不安や恐怖をもって受け取られているかを考えてみれば、それは明らかだと思います。」